概要
中国国民党(ちゅうごくこくみんとう、繁体字:中國國民黨、英語:Chinese Nationalist Party、Kuomintang)は、中華民国の政党。イメージカラーは藍色で、ニュース報道などでは民主進歩党(以下は民進党)の「緑」に対して「藍」と呼ばれる事がある。民進党と共に2大政党制を形成している。
1919年10月に孫文によって結成された政党である。1945年10月に中華民国が台湾を編入し、共産党との内戦に至った両岸統治時代を経て、1949年12月に内戦で敗北した国民党政府が台北に事実上遷都した。その後は台湾省を地盤とした政党として存続し、1987年7月まで長らく同党の一党独裁が続いた。
2000年5月に民進党の陳水扁総統が就任して史上初めて野党となり、2001年12月に立法院(国会)第1党の座を奪われた。しかし2008年5月に国民党の馬英九総統が就任して政権与党に復帰し、再度立法院第1党を奪回した。
現在
台湾・金門島・馬祖島を基盤とした政党となって久しいが、党の精神的支柱として今も孫文を党総理とし、また蔣介石を1976年11月の党大会から「永久総裁」としており、未だ党名に「中国」を掲げて「中国の政党」としての建前は捨てていない。「大陸反攻」のスローガンを撤回した李登輝時代には党の台湾化(本土化)が一定程度進んだが、李登輝が総統を退任して国民党を離党した2000年5月からは党内「本土派」が退潮し、副総統だった連戦が党主席に就任してからは「中華民族アイデンティティ」から、大陸部分との繋がりを強調する傾向に回帰した。
国民党は孫文と蒋介石が戦前から敵・友として日本と関わりが深かった事や、冷戦時代に反共主義を名目とする一党独裁制の時代が長らく続いた事もあり、日本の政界で自民党とのパイプは民進党より太く、知日派を多く擁している。
近年では台湾社会自体の本土化に伴い、その中華民族主義に共鳴する若者が少なくなって党員の高齢化が急速に進んでおり、加えて世界でも屈指であった党の資金もジリ貧になり、長年総統府の向かいに設置されていた本部も民進党と関係の深いエバーグリーン・グループに売り払って移転するなど苦境が続いている。この為近年では脱中国化を掲げる若手党員の台頭が著しくなっている。
2005年7月に連戦・2009年10月に呉伯雄が「名誉主席」の称号を与えられており、どちらもかつて党主席を務めていた。
歴史
1914年7月に結成された中華革命党が前身であり、孫文は党員に対して絶対服従を要求した。1919年10月に孫文は活動が停止していた中華革命党を改組する形で国民党を結成した。本部は上海に設置され、党総理に就任した。1921年7月に大陸部分で共産党が結成されると、国民党は当初は容共主義を取り、1922年1月のコミンテルン極東民族大会にて「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針の採択を受けて、1923年1月にソ連との連帯を鮮明にした「孫文・ヨッフェ共同宣言」が発表された。
1949年5月に戒厳令を発令し、同年12月に国民党政府は台湾島に逃亡した。1950年3月に蒋介石は総統職に復職し、台湾国民政府の活動が開始された。
1971年10月に国際連合総会で決議されたアルバニア決議によって、国際連合での「中国」の代表権が中華人民共和国へと移管された。同決議に伴って日本・アメリカなどは中華民国政府に対して「台湾」の名で国際連合に留まるよう説得したが、例に漏れず「漢賊不両立」の言い分の元に拒否し、中華民国は国際連合からの脱退を宣言した。その事から中華民国政府は「中国を統治する政府」として国際的に承認されなくなり、1972年9月の日中国交正常化に伴う日華平和条約の破棄によって日本との外交関係を失うなど、国際的な孤立状況に次第に陥った。
1987年7月に戒厳令の解除と共に新党の結成が解禁され、台湾国民政府の民主化が前進していった。1996年3月に史上初めて国民の直接選挙による総統選挙が実施され、李登輝が選出された。これによって中華民国政府が「中国全土を統治する政府」から「自由地区を代表する政府」へと事実上変化し、同時に1927年4月以来続いた南京国民政府の国民党一党独裁政権が終焉となった。
関連動画
- ♪National Anthem of the Republic of China (Taiwan) (中華民國國歌.(台湾国歌))
関連リンク
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