概要
比企の乱とは、鎌倉時代初期に起きた北条氏と比企一族の権力争いを言う。
鎌倉幕府2代将軍・源頼家
万寿(後の源頼家)は、寿永元年(1182年)、父に鎌倉に拠点を構える源頼朝、北条時政の娘・北条政子を母として生まれる。有力御家人・比企能員が乳母父、一族に連なる女性が乳母に選ばれ、比企一族は頼家の後ろ盾になっていった。
建久3年(1192年)、頼朝は朝廷より征夷大将軍に叙任するとの命を受け就任。
正治元年(1199年)1月、父・頼朝が亡くなり、18歳の若さで頼家は「鎌倉殿」の称号を受けるが、征夷大将軍に任じられることはなかった。
頼家は政治的経験がないこともあって、父・頼朝が信頼した梶原景時や乳母父・比企能員を重用、地図に一本の線を引いて所領争いの解決を図る、狩りや蹴鞠に熱中したり、御家人の妾を奪ったばかりか、その御家人を殺害しようとするなど、非行が目立ったとされている。
これらのこともあって、正治元年(1199年)4月、幕府は頼家から政治権限を奪ったうえで13人の有力御家人による合議制とする対抗策を取った。
正治元年(1199年)10月、梶原景時に対する弾劾状が66人の御家人から提出され、翌正治2年(1200年)1月20日、上洛途中の梶原景時らを御家人が襲撃、梶原一族は滅亡した。
建仁2年(1202年)、征夷大将軍宣下を頼家は受けるが、前述のとおり実権はなく、
妻(一子・一幡の母でもある)の父であり、乳母父でもある比企能員をたよって北条氏に対する反撃を企てるが、その直前、頼家は急な病に倒れて将軍職を解任され、北条氏はこの隙を狙って比企能員を討ち、一族を滅ぼしてしまった。
一命をとりとめた頼家は、その後、伊豆修善寺に幽閉され、元久元年(1204年)、同地において北条氏の刺客に襲われ殺害されてしまった。