概要
出身国は燕。「剛成君」とも呼ばれている。
諸方に遊学して、諸侯に仕官を求めたが用いられなかった。
趙に赴くが間もなく追われ、韓・魏に向かうが、途中で賊に襲われ釜や鍋を奪われた。その際、秦の宰相・范雎が自分の推薦した者達が重罪を犯し、范雎が内心慚愧していると聞き、秦に赴いて人をやって范雎に「燕の客人・蔡沢は天下きっての俊秀である。秦王に謁見したら、応侯范雎を苦しめ宰相の地位をすぐに奪うだろう」と言わせた。范雎はそれを聞き、蔡沢を召した。蔡沢は「かの商君(商鞅)・呉子(呉起)・大夫種(文種)・ 白公(白起)らは国家に忠誠で、功は計り知れないのに最期には殺されました。これは范蠡を見習わなかったためです。あなたの功は極まったのに、高位に坐しておられます。どうして宰相の印を帰し、賢者に譲って引退されないのですか」と言った。范雎は「よろしい」と言い、蔡沢を上客として待遇し、彼を昭襄王に推挙した。昭襄王はあらたに蔡沢の計画を採用して、彼を宰相とした。
宰相となって数ヶ月で自分をそしる者があったので、蔡沢は誅殺されることを恐れて病と称して宰相の印を返上した。のち剛成君と号し、昭襄王・孝文王・秦王政に仕えた。
紀元前239年、秦は蔡沢を燕にやった。蔡沢は3年かけて同盟を成功させ、燕は太子丹を人質に送ってきた
キングダムの蔡沢
CV:千田光男
呂不韋四柱の一人。
昭王時代からの宰相であり、現在は外交を司る最高官として燕国との交渉を担当している。
合従軍の襲来時には他国に居た為、斉国王に謁見して斉国の合従軍離脱を説得することができた。