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エカチェリーナ2世の編集履歴

2023-12-05 20:16:42 バージョン

エカチェリーナ2世

えかちぇりーなにせい

1729年4月21日~1796年11月6日まで在位していたロシア帝国の女性皇帝。

概要

ロシアの女帝。ピョートル1世と並び大帝(ヴェリーカヤ)と称される。数多くの愛人を抱えたことでも有名。


ドイツのアンハルト・ツェルプスト公の娘であり、ロシア人としての血は全くひいてない。

ピョートル大帝の娘であるエリザヴェータ女帝の推薦で、女帝の姉の子(女帝の甥、ピョートル大帝の孫)であるピョートル3世に嫁した。息子のパーヴェルをもうけるも、性格の合わない夫との仲は最悪であった。

ピョートル3世の即位の半年後に近衛連隊のクーデタで夫を廃位・殺害して即位した。夫のピョートル3世もエカチェリーナ同様にドイツ生まれであったが、彼はロシアの慣習を嫌って、ドイツを懐かしむ人物で、即位すると亡き叔母のエリザヴェータ女帝によって勝利しかけていたドイツ・プロイセン王国との戦争(七年戦争)を早々に中断し、プロイセン優位の講和を結んでしまった。そのためピョートル3世は軍はじめ国内の猛反発を招き、これが政治的致命傷となった。一方でエカチュリーナはロシアの慣習に積極的に馴染もうとしたため、人望を得ていた。


啓蒙専制君主としての姿勢を取っていたが、大規模な国内反乱であるプガチョフの乱以降は反動化。反乱を鎮圧後、農奴制を極限にまで強化した。

ピョートル大帝に続き、ロシアの領土拡張に務め、オスマン帝国と2度に渡り戦い、クリミアを併合(露土戦争)。またポーランド分割にも加わり、更に領土を獲得。1792年にラスクマンを根室へ派遣し、江戸幕府へ外国を迫っている。



1796年脳卒中で死亡。後を継いだ息子のパーヴェル1世は母の所業を嫌っており、エカチェリーナ2世を全否定する政策を打ち出したが、これまた国内の反対派の反感を買い、数年後に暗殺されてしまった。


人物

  • 多くの男性と関係を持っており、女帝を「娼婦」と揶揄する者もいた。しかし陸軍人のポチョムキンとは秘密結婚であったものの、彼とだけは生涯唯一の真実の夫と言うべき関係であった。
  • 女性教育に力を注いだとされ、近年再評価の傾向がある。
  • 日本人漂流者・大黒屋光太夫を日本へ送還した。

創作における主な登場作品

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