概要
トロッコ問題(トロッコもんだい、英: trolley problem)あるいはトロリー問題とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という倫理学の思考実験。 |
フィリッパ・フットが提起し、ジュディス・ジャーヴィス・トムソン 、ピーター・アンガーなどが考察を行った。人間がどのように道徳的ジレンマを解決するかの手がかりとなると考えられており、道徳心理学、神経倫理学では重要な論題として扱われている。
Wikipedia日本語版 トロッコ問題 2019年4月13日 (土) 10:51版より引用
問題
Q あなたは線路がY字に分岐する場所に立っています。
そこへ、ブレーキの壊れたトロッコが猛スピードで走ってきました。
前方の線路では、5人の作業員が異変に気づかずに作業中。
このままでは、トロッコは5人を確実に轢き殺してしまいます。
あなたが線路の分岐器を切り替えれば、この5人は確実に助かります。
しかし、分岐先のもう一本の線路の先にも、1人の作業員がいました。
あなたがこの線路へトロッコを引き込むと、5人は助かりますが、
1人は確実に死にます。避難させる余裕はもうありません。
さて、道徳的に正しい選択は?
また(同値だが)若干の変題として、
Q あなたは跨線橋の上に立っています。
一方から暴走したトロッコが猛スピードで走ってくるのを見つけました。
もう一方を見ると、5人の作業員が異変に気づかずに作業中。
このままでは、トロッコは5人を確実に轢き殺してしまいます。
さて、あなたのそばには1人の男がいます。
今彼を橋から突き落とせば、彼の体がうまい具合にトロッコを脱線させて止めてくれるでしょう。
これで5人は助かりますが、落ちた彼が助からないのは間違いない。
あなたはどうすべきか?
詳細はWikipediaを参照。
日本では2010年放送の『ハーバード白熱教室』、及び、マイケル・サンデル教授の著書『これからの「正義」の話をしよう』で広く知られるようになった。
哲学・道徳・倫理学的側面に加えて、昨今では自動車の自動運転において「大事故を起こさないために小事故を起こすことを許容する設定をして良いのか?」というような実用的な問題にも繋がってきている。
似たような例題としては昔にギリシャの哲学者が提唱した「カルネアデスの板」の話にも通じているが、「自分と他人」の選択であるあちらに対し、こちらは「他人と別の他人」である点が異なる。
この問題に対する日本における反応
この問題が2019年4月に再び注目を浴びた。きっかけはとある教師のツイートである。
(外部リンク)
「なぜ助ける必要があるのかわからない。俺は傍観者だから放置して5人が死んでも責任はない。でも切り替えたら俺の責任になる」「5人の人に感謝されるメリットよりも、1人の遺族に責められるデメリットの方が大きい」と捻くれながらも現実の重さを感じさせる意見が出たことが多くのフォロワーに一石を投じることとなった。
(事実、変題の方の取り扱いに近い)
2019年9月、トロッコ問題について「問題に触れない、という形で解決する」という回答は生徒からだけでなく、学校関係者からも提示されることになった(死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪、「人を助けず、立ち去れ」が正解になる日本社会 「岩国トロッコ問題」が露呈した本音)。
とある鉄道ファンのツイートで、ポイント操作で意図的に脱線させて作業員を救うという手法も話題となった(外部リンク)。
同様にpixivで活動する絵師たちの耳にも届いており、トロッコをポイント操作せずとも食い止める猛者や作業員ではなくトロッコに轢かれたぐらいじゃ死なない人間が線路の上に立っているイラスト、あるいは複線ドリフトで同時に両方の線路を選ぶイラストなどが投稿されている。
某クソマンガでは、動かなくなったトロッコを動かすというオチが描かれた。
反応に対する反論
ただし記事冒頭で述べた通り、トロッコ問題とは思考実験である。
重要なのは「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」「許されるならそれはどの段階までなのか?」と言う設定である。思考実験というのは前提条件以外については考慮に入れないものであり、それ以外の要素を持ち出した時点で問題自体が意味をなさなくなる。
であるので上記のような「解決策」は何ら意味のないものであり、ジョークとして言っているならともかく、真面目に言っているならばこの「問題」を何ら理解していない科学的素養の欠けた「ズレた」発言でしか無い。
前述したSNSでの屁理屈回答を「斬新」と持ち上げるようなユーザー、ネットニュースサイトも多く、当記事の過去版でも同様の行為が行われていたが、実際にはサンデル教授の公開授業の時点で、似たような屁理屈を述べてやんわりと教授に否定される学生が少なからずいた。
日本にトロッコ問題が来た時から使い古されている、既出の陳腐な回答であったりする。
この問題は本来は真剣な場で、質問者・回答者ともに考えて語り合うべき話である。だが現在の日本においては、大喜利問題のネタとして使われる事がほぼ全てである。
真剣にトロッコ問題を語る場は、日本では残念ながらほとんど存在しないと言って良いだろう。