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カルネアデスの板

かるねあですのいた

ギリシャ哲学において出題された有名な倫理問題。究極状況における自他に対する生存の選択を問う問題であり、現代法理では「緊急避難」に該当する。
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ギリシャの哲学者であるカルネアデスが出したとされる倫理(法律社会益)問題。
ギリシャ哲学の中でも有名な問題のひとつで、極限状況における自他の生存選択を問うている。

問題の内容

自身を含む複数名の乗る船が難破して船は大破。全員が海に投げ出された。自身は命からがら大破した船の残骸である板に捕まり生存の場を確保できた。しかし、自分と同じように船から投げ出された者が自分と同じように板にすがろうとしていた。
しかし板のサイズはあまりに小さく、人ひとりが生存を確保するのが精いっぱい。二人以上が板にすがれば、板は耐え切れずに共倒れになってしまう。
そこで自分は板にすがろうとした人々を突き落とし見殺しにして一人だけ生存を得た。だが自分は後に見殺しにした人々の遺族たちから殺人の罪で訴えられてしまう。

極限状況下のやむなき事とはいえ人を見殺しにしてしまった自分は、やはり殺人者として死刑にならねばならないのだろうか?

解答例

解答のひとつ(法律・社会利益上の解法)

現時点で広く法範例として国際的に支持されている、1つの模範解答を見てみよう。

人間が生存を求める事は、人がこの世に生を受けてより与えられるべき絶対的な権利である。自己の生存すら危うく他者の生存まで感知できない、正常な判断も危うい極限状況においては自己の生存こそを最優先に考えてしまうのは人間であるならば、やむかたない事として認められる。

ゆえに「人々を突き落とした自分」は罪に問われない(問われるべきではない)ものとする。
これは現代法理においては正当防衛のひとつ「緊急避難」として認められている。(日本では刑法37条)

遺族感情の問題

とは言え、模範解答とされる法学上の解法も問題が無いわけではない。

一旦この問題における「自分」を離れて、この「自分」を訴える遺族の立場に立って考えれば、これが唯一の正解とは言えないことが容易にわかるだろう。
遺族側にしてみれば「極限状況で思わず」であろうと「故意に」であろうと家族を奪われたことに変わりはない。彼らの目には「自分」は許されざる人殺しとして映っているのであり、事情があったということでお咎め無しになってしまうというのは許しがたいことだからだ。

さらに広い視点では

あるいは、この「自分」の家族の立場から、この事象を見た場合はどうだろうか。その立場から「自分」を訴えた「被害者」の家族はどう見えるだろうか。
また、あるいは同じく「自分」に家族を殺されながらも、無理にでも状況を飲み込み納得して「自分」の生存を意味あるものにしてほしい(死んで終わりとは生ぬるい。きちんと生きて永劫に苦しむを苦しみ、語るべきを語り伝え、人のために尽くし、贖罪としてほしい)と考える別の遺族の立場からは「自分」を訴えている「遺族」たちの姿はどのように映るだろうか。

法学上の正解はひとつかもしれないが、倫理上はそう簡単に割りきれないのがこの問題の複雑さと言えよう。

緊急避難の例外

上述の緊急避難であるが、警察官消防士自衛官医師看護師介護士保育士など、職業倫理上において他者の命や尊厳を守るべき職業にある者には、これは適用されない。(法律上で適用されたとしても倫理上は許されないため失職や職業免許の取り上げ、社会的信用の失墜の可能性が高まる)

余談

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は、ある意味ではこれと対極にある話と言われる。

時に「カルネアデス」は出題者ではなく溺れて他者を突き飛ばした本人として語られる場合がある。

関連する作品

ギリシャ哲学の有名な話でもあるため、これを題材にしたり、モチーフにしたり、重要用語にしたりする作品も多い。


関連項目

正当防衛 蜘蛛の糸

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