概要
トロッコ問題(トロッコもんだい、英: trolley problem)あるいはトロリー問題とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という倫理学の思考実験。 |
フィリッパ・フットが副次被害について論ずる文章の中で喩え話の一つとして持ち出したものであり、後発の哲学者によって変題が複数提示され体系化された、人間の倫理的判断基準を探るためのサンプルシナリオの一つである。
解説
- 基本型
前方で5名が作業中の線路をトロッコが暴走している。あなたは分岐器を操作してトロッコを支線に逸らすことができるが、その支線では1名が作業中である。分岐器を操作せずに5人を見殺しにするか、分岐器を操作して1人を犠牲にするか、どちらが正しいだろうか?
これはフィリッパ・フットが『中絶の問題と副次被害の教義(pdf)』という論説の中で用いた喩え話の一つが原型となっている。
上述したようにこれは倫理基準を論じるためのサンプルであり、基準点を探るために様々な変題と共に提示されるのが常である。
フットの文では裁判官や飛行機のパイロットなど全く別環境のシナリオが並べられていたが、後には論点を明確化するためにトロッコを用いた変題が多く提示されている。
以下に有名な変題を示す。
- 太った男(the fat man)
線路脇に太った作業員が立っており、この作業員を突き落とせばトロッコを止めて5人を救うことができる。
1人と5人、数字としては同値の比較であるわけだが、基本型において1人の犠牲はあくまでも(予測可能ではあるが)結果的に生じたものに過ぎない一方、この事例は意図的に1人を殺害することで5人と引き換えとしており、基本型と比較すると犠牲を受け入れない解答が増える傾向にある。
- 太った犯人(the fat villan)
線路脇に太った男が立っている。彼は5人を轢殺するためにトロッコを暴走させた張本人である。
ほぼ全員が男を突き落とすことに同意する事例。ほとんどジレンマは発生せず議論の題材には値しないが、他の変題と比較するうえで一つの基準として用いられることがある。
- 複線上の太った男(the loop)
5人の男に向かう線路の途中が複線になっており、複線の一方では1人の太った男が作業中である。太った男の方に分岐を切り替えれば太った男を犠牲にトロッコを停止させ5人を救うことができる。
少々複雑なので上に貼った「トロッコ問題の5つのケース」を確認して欲しい。
操作としては基本型と変わらないのだが、この問題においては1人の犠牲は結果的に発生するのではなく、事故を防ぐために犠牲が積極的に要求されている点が異なる。
太った男の事例と同様の印象が与えられるらしく、この場合でも犠牲を受け入れない解答が増える傾向にある。
- 野原の男(man in the yard)
分岐器を操作すると不通の支線に引き込みトロッコを脱線させて5人を救うことができるが、脱線させたことにより近くで昼寝をしていた無関係の男が下敷きになってしまう。
これまでは作業員と作業員の比較であったわけだが、このサンプルで犠牲になるのは作業員ではなく無関係の男である。
犠牲となるのが関係者かどうかというのも判断基準に影響を与え、犠牲を受け入れない解答が増える。
対立する概念
5人を見殺しにするか、1人を見殺しにするかは、功利主義と義務論の対立と言われる。
功利主義
最大多数の最大幸福を優先する考え方。
この場合、人数の多い方を優先して助けることになる。
義務論
倫理的な正しさを優先する考え方。
この場合、人間を進んで手に掛けるようなことは倫理に反するため、5人を助けるようなことはしない。
日本における反応
日本では2010年放送の『ハーバード白熱教室』、及び、マイケル・サンデル教授の著書『これからの「正義」の話をしよう』で広く知られるようになった。
哲学・道徳・倫理学的側面に加えて、昨今では自動車の自動運転において「大事故を起こさないために小事故を起こすことを許容する設定をして良いのか?」というような実用的な問題にも繋がってきている。
似たような例題としては昔にギリシャの哲学者が提唱した「カルネアデスの板」の話にも通じているが、「自分と他人」の選択であるあちらに対し、こちらは「他人と別の他人」である点が異なる。
しかしながら科学的な思考に慣れていない一般人にはこの思考実験の本質はなかなか理解が難しく、適切な運用がされないことが多い。
上述したようにトロッコ問題は様々な変題を提示することで異なるリアクションを引き出し、倫理的判断基準の落とし所を議論するところまでが本質であるわけだが、一般に引用される場合には基本型だけを提示して中途半端に問題が提起されるところで終わりがち。
更にはそもそも「思考実験」という行為そのものに理解が及ばないまま引用している事例も多々あり、例えば2019年に(5人の人に感謝されるメリットよりも、1人の遺族に責められるデメリットの方が大きい)という回答が話題になったが、これは「遺族」という無関係の変数を勝手に持ち込んでしまった不適切な例である。
また「1人を殺すか5人を見捨てるか」というセンセーショナルな課題を突きつけることに悪趣味な意義を見出してしまい、「幼い児童にそのまま投げかけたところ多大な心理不安を与えて顰蹙を買う」という事例もあった。
大喜利
とある鉄道ファンのツイートで、ポイント操作で意図的に脱線させて作業員を救うという手法も話題となった(外部リンク)。
同様にpixivで活動する絵師たちの耳にも届いており、トロッコをポイント操作せずとも食い止める猛者や作業員ではなくトロッコに轢かれたぐらいじゃ死なない人間が線路の上に立っているイラスト、あるいは複線ドリフトで同時に両方の線路を選ぶイラストなどが投稿されている。
某クソマンガでは、動かなくなったトロッコを動かすというオチが描かれた。
関連タグ
PLiCy:トロッコ問題を題材にしたゲームが投稿されている
本田鹿の子の本棚:トロッコ問題が日常と化した世界が舞台の漫画がある。その世界では野生の暴走トロッコが現れ突如トロッコ問題の解答を強いてくるようになっていた。しかし、それに適応した人類もまた存在し「一人殺す、その上で命の選択を行なった責任を取って腹を切る」「一人側が自害して選択側に咎を負わせない」「(先がループしていてどのみち全員死ぬ奇行種のトロッコに対し)五人が一列に並んで轢かれる事で脱線、或いは減速による停止を狙う」などの覚悟がガンギマッた行動をとる様になっており、彼らはサムライと呼ばれた