概要
生年は不明。ただし父とされる(これもはっきりしない)長則が1520年に戦死しているため、それ以前に生まれたと推測される。三好長慶の従叔父として活躍。管細川晴元や三好元長と争った際は、敵部将の香西元成を撃退している。他にも播磨の別所家攻めや、丹波の波多野家征伐などで三好家の勢力拡大に貢献する。長慶の側近として重きをなしており、長慶の弟である三好義賢や、松永久秀よりも先に従四位下に叙せられている。
長慶とその嫡男義興の死後は、長慶の弟十河一存の子で、幼くして当主となった三好義継を他の三人衆や久秀と共に補佐する。その後、四人で共謀して三好家の障害となっていた足利義輝を暗殺している。しかし、家中の主導権争いから久秀と対立し、嫡男を失いながらも彼を大和一国に封じ込め、戦局を有利に運んだ。更に、義輝の従弟に当たる足利義栄を14代将軍に就任させている。
しかし、織田信長が足利義昭を担いで上洛すると、機内の所領を失って阿波に退散している。しかし、その翌年には篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめあげて再起を図り、信長包囲網に参加して一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げた。その後、一度は和睦するも再び信長包囲網に参加。ここにきてようやく三好家中が反織田で統一されたが、長きに渡る内部抗争で三好家は弱り切っていた上、包囲網の主力であった武田信玄が病死したことで包囲が破綻。長逸は、1573年に摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れて以降の消息は不明。戦死説、隠居説、幽閉説などがあるがどれも定かではない。
外国人保護に積極的で、京から追われたヴィレラやフロイスら宣教師たちに護衛をつけ、通行税も免除している。『日本史』を著したフロイスは、長逸を「異教徒」でありながらも「生来善良な人」「教会の友人」と記している。1566年にも長逸について記録していて、「天下の4人の執政のうちの1人」「堺市内にきわめて豪華で立派な邸宅を有した」などと長逸を評している。