曖昧さ回避
ポルシェ博士の失敗
1941年5月に、連合国軍の歩兵戦車や対戦車砲に対抗するため、新たに重戦車を開発する指令がポルシェ社とヘンシェル社に下された。
1942年4月20日、2社がそれぞれ開発した試験車両がヒトラーの面前で直進走行試験を受けた。試験の結果はヘンシェル社の車輛がポルシェ社の車輛を凌駕していた。最終的に、改良を加えたヘンシェル社の車輛がⅥ号戦車(ティーガーⅠ)として採用され、ポルシェ社の車両は不採用になった。
ところが、試験結果を待たずにポルシェ社に90輌分の車体の生産許可が降りてしまっており、クルップ社が100輌分の装甲板を納入済みであった。不採用によって浮いたこの車体が無駄になることを避けるため、主砲として71口径88mm対戦車砲を装備し、前面装甲200mmを誇る駆逐戦車が作られることになった。
クルスク投入
1943年5月までに90輌が生産されて、ポルシェ博士の名前(フェルディナント・ポルシェ)にちなんで「フェルディナント」と名付けられ、第653及び第654重戦車駆逐大隊に配備され、「クルスクの戦い」に投入された。
しかし、投入された戦線は敵砲撃が激しく、強固な地雷原もあり、多くが全損、もしくは行動不能に陥った。回収できる車両はできるだけ回収したものの、クルスクの戦い終了後、生き残った車両は48両になっていた。
ちなみに、よく「車体前面に機銃がなかったため、歩兵による肉薄攻撃で撃破された」と言われるが、実際には行動不能になった車両は別として、動ける車両が撃破されたのは夜間に襲撃を受けた1両のみである。
クルスク以降
生き残った48両のフェルディナントは、車体前面の機銃と車長用キューポラを装備、履帯の変更、機関室上面のグリルの強化などの改良を受け、「エレファント」に改称した。
その後は、部隊の併合や配属先の変更などで各戦線を転々とし、最終的に生き残った4輌が1945年4月のベルリン近郊での防衛戦に投入された記録が残っている。
こうして「虎のなれなかった象」はドイツ第三帝国と命運を共にしたのだった。