沿海の危機感
「フランカー」を国産化せよ!
湾岸戦争(1991)や第三次台湾危機(1995)において、中国軍が痛感したのは『たとえ中国近海だったとしても、現状の中国海軍ではアメリカ海軍に手も足も出ない』という事実であった。それまでは陸軍戦力を中心とし、空軍はそれを支援するよう整備してきた中国軍だったが、海軍はまったく時代遅れだったことに気づいたのである。
しかし、それまでの海軍主力機といえば、J-7やQ-5といった航続距離の短い機種が多かった。陸から離れすぎるとH-6に頼るしかないが、空母打撃群に大型爆撃機だけで立ち向かうのは無謀な挑戦だと言えた。
もっと航続距離が長く、長距離でも柔軟に対応できる戦闘機が必要だ。
当時、経済崩壊で混乱するロシアでは、手持ちの兵器にも片っ端から売値を付けており、それもあって1991年にはさっそくSu-27最初の売買契約が結ばれた。1996年・2002年にも売買は行われ、合計76機のSu-27SK(36機)・Su-27UBK(40機)が引き渡された。
その素晴らしい性能には惚れ込んだ中国軍だったが、Su-27はやはりロシアの風土に合わせて設計されている事から「暑さ」に弱く(=シーリング材などが溶けて中国南部で運用できない等)、またロシアでは「防空戦闘機」だった事から多用途性には全く欠けていた。
そこで、Su-27を国産化(ライセンス生産)し、生産・維持に関する技術を習得しようとする試みが始まった。この事業には当時、J-8の輸出に失敗して手隙になっていた瀋陽飛機が請け負うことになった。同時に北京では製造説明書の分析・翻訳を進め、中国初のチタン溶接などについて手順書を作成した。ライセンス生産されたSu-27にはJ-11と型式番号が振られた。
こうした努力の末、1998年には初飛行に成功。しかしエンジンや電子機器などはロシアが国産化を許さず、すべて輸入された。故障の際はいったん機体から取り外して、ロシアに送り返して修理する必要があり、中国軍にとっては未だ不自由・不便な代物でもあった。年産20機を送り出す態勢が整えられたものの、結局生産はJ-11(60機)とJ-11A(36機)の計96機で一端打ち止めとされてしまった。
国産マルチロール・ファイターへ
J-11AはJ-11(Su-27SK相当)の電子機器・コクピット設備を更新したもので、R-77中距離AAMを運用できる等、発展した機であった。しかし、これでも真の多用途性には程遠い。対地兵装に関していえば、Su-27SKと全く変わっていなかったのである。
ロシアからは対地兵装を拡充したSu-27SMKの提案を受けていたが、中国は本格的な戦闘爆撃機としてSu-30を採用することにした。同時に、J-11にも同様の派生型開発を進めていった。
中国版Su-30
そこで生まれたのがJ-16「潜龍」である。
J-11Bの複座練習機型J-11BSを基にし、後席をレーダー手・爆撃手席に改造している。電子機器は殆どが中国国産品となり、レーダーFCSも独自のAESAレーダーが搭載されている。これらの電子機器は原型よりも軽量で、また機体にも軽量な複合素材が大幅に取り入れられた。さらにエンジンも国産のWS-10Bとなって、推力は1基あたり1t程度向上している。
基本的にSu-30MKKを手本にはしているが、改良が細々と入れられた結果、戦闘力は更に向上しているようだ。原型機にはなかった増槽(1400ℓ)のオプションもあり、戦闘行動半径は兵器8tを搭載して尚1500kmを実現しているといわれ、更にYJ-12のような超音速対艦ミサイルも搭載可能で、日米軍には脅威となるだろう。