中国と朝鮮戦争と核兵器と
力の象徴=核兵器
中国には、アヘン戦争以来の植民地化がトラウマのように刻み込まれており、辛亥革命で王朝を打倒して以来、二度と外国の影響に置かれないように「強大な力」の保持には心を砕いていた。そして昭和20年、広島・長崎へ核兵器が投入されると、毛沢東はこれこそが中国独立の担保になると考え、保有を目指すようになったといわれる。
ただ、いくら欲しくても『核兵器の作り方』なんてそうホイホイ教えてくれるようなモノではなく、今から研究を始めるにしても、実を結ぶまでには大分長い時間が必要そうだった。
毛沢東vsソビエトwith核兵器
そんな流れが変わったのは朝鮮戦争で、1953年にはアイゼンハワー大統領が核兵器投入を仄めかしたことにより、ソビエト(1949年に核兵器の開発成功)へ技術協力を求めるようになる。こうして「中ソ友好同盟相互援助条約」は締結された。しかし核兵器に関する供与は全くナシ。スターリンは(当然ながら)ひたすら核兵器を欲しがる毛沢東を信用しておらず、戦争を理由に核兵器の秘密を明かすくらいなら、その戦争を終わらせた方が良いと考えていた。
朝鮮戦争は戦術がどうこうというよりも、こうした観点で見れば、毛沢東に核兵器を持たせないため早々に終結する予定だったのだ。しかし、いざ終戦という矢先にスターリンは死去し、以降のソビエトは「ハト派」に分類できるような穏健派のニキータ・フルシチョフが指導者の座についた。そして、このフルシチョフは(アメリカとの平和共存のためにも)朝鮮戦争終結を目指す事には変わりなく、従って戦争継続⇒危機を煽って核武装を狙う毛沢東にとっては、いささか都合の悪い相手だった。
そこで毛沢東は「戦争終結」を人質にとって、フルシチョフとの交渉に入った。
結局どうしても戦争を終わらせたいフルシチョフは折れ、核兵器はまだ「おあづけ」なものの、結果的には大規模工業化計画を中国に渡すことで、終戦への同意を得られた。
本当はその裏にアメやらムチやらいろいろあったのだが、ともかくこれで毛沢東は中国が軍事大国となる「原資」を手に入れた。「第一次五ヵ年計画」の始まりである。こうして朝鮮戦争後の軍事力再整備を急速に進めた中国は、翌54年に台湾進攻を企図し、アメリカとの対立を鮮明にしていく。しかし、これもハト派のフルシチョフにとっては不都合な事で、同10月1日には訪中して交渉し、15もの企業売却(当然、軍需関連・核関連企業だろう)と多額の借款と引き換えに、ようやく手を引かせた。ついでに毛沢東はついに原子炉建設計画への支援を取り付ける。
ウラン鉱脈発見!いよいよ核戦争の一角を占める中国
核武装に向けて徐々に道筋を付けていった中国だったが、にわかに追い風が吹いた。
1955年1月、江西省にてウラン鉱脈が発見され、核兵器の実現性が一挙に高まったのである。
毛沢東はここに核兵器、ならびにその運搬手段の開発を指示し、本格的な核武装が始まった。同時にフルシチョフからはサイクロトロン・原子炉など先端科学研究施設の建設も取り付け、事態は急速に進行しはじめていた。核武装さえ出来ればソビエトはもう用済み。毛沢東はソビエトから搾れるだけ技術を搾り取り、独自開発に目途が立ったら切り捨てるつもりになっていた。
1956年には、アメリカを追放された中国系科学者を筆頭にロケットの開発研究所を開き、本格的なロケット開発が始まるようになった。1957年はフルシチョフ体制がクーデターで動揺し、この安定のために周辺国へ体制の地盤固めに協力を求めた。もちろん中国が求めたのは技術協力で、今回はさらに弾道ミサイルの実物も供与された。こうなると後は原子力潜水艦が欲しいだけになった。1959年には再び台湾との軍事衝突を起こし、手を引く見返りにフルシチョフから原潜の技術協力を取り付けた。
信用と裏切りと
しかし、もうそろそろ限界だった。
欲しいものが出る度に軍事衝突を起こし、要求ばかりが度重なった結果、フルシチョフは毛沢東を信用しないようになった。アイツら貰うばっかりで何もしてくれやしない。挙句にこちらの邪魔ばかり。そろそろ思い知らせてやれ!
毛沢東の側にしても、知りたい事は大概知った訳だし、発展の道筋は付けた。もうソビエトばかりに威張らせない。イケ好かないこと(=スターリン主義否定など)ばかり押し付けて、上から目線なのも気に入らない。もう離れてもいい頃だろう。第一「平和共存路線」って何のつもりだよ、世界同時革命はどこ行ったコラ!
1950年代末期、こうして両者が一様に不信を募らせ、また1956年にはフルシチョフがスターリン批判から平和共存戦略を始めるなど、レーニン主義(毛沢東)と修正主義(フルシチョフ)が衝突して、中ソ対立が表面化し始めた。これは1960年の「レーニン主義万歳」発表により決定的となり、ここに同じ共産主義国だった中国とソビエトは、別々の道を歩むのである。
(技術面は除く)
「使えない」もの
1964年、日本では東京オリンピックが開催されるこの年、中国ではMiG-21のライセンス生産に成功し、1966年には初飛行に漕ぎつけた。しかし当時の航空技術は文字通りの日進月歩であり、毎年のように飛躍的進歩を遂げていた。せっかく初飛行した中国版MiG-21(J-7)だったが、完成時点で6年前の戦闘機であり、完成した時点で既に時代遅れであった。
そんな事はもちろん空軍上層部も分かっていたのだが、唯一「色々と参考になりそうな事を教えてくれそう」だったソビエトとの縁は、1956年以来の対立でもう修復不可能なまでになっており、また共産党の指導により、軍は通常兵力よりも戦略核戦力に重点を置いて拡充に努めていた
自主自立を担保するために核兵器の整備を急いだのだが、これは戦闘機を始めとした通常兵力拡充の面で見れば悪手だった。
つまり、『とても現代戦で勝てるとは思えないが、とりあえず核兵器は持ってる』という訳で、手出し無用・放置安定の相手と見なされた。何せ当時の核戦略といえば「核大量報復戦略」であり、これはナニをしようともされようとも、全面的核戦争で対抗するしか無かった訳で、これでは政治的にはアクセル全開・ブレーキ全開の二つしか無いようなものだったのだ。ましてや通常兵力そっちのけで核戦力整備に全額振り込んだ中国である。
当然、積極的に仲良くしようなんて思う指導者なぞ居ようはずもなく、第一フルシチョフも縁切ったばかりではないか。世界は中国だけで成り立つ訳ではないから、これはちょっとマズかった。
何が何でも戦争で救われる国
なお、中国が戦争によって外交的地位を確保しようとしたのはこれ以降も続き、イギリスのマレー半島介入に対する牽制のためにインドネシアを支援しようとしたり、または1950年代から始まった有名な「チベット侵攻」、それに続く中印国境紛争など、好意的に見れば(日本がそうだったように)中国が国際社会の中で位置を築こうとする努力は続いた。
しかし、これと引き換えに周辺国の中国に対する態度は悪化し、インドもこれ以降核開発へ乗り出すようになる。台湾(国民党)への武力干渉も断続的に続き、核武装したちょっとヤバげな国というイメージで語られるようになってしまった。これが払拭されるのは1990年代、天安門事件を日本が最初に許して以降となるが、こうしたイメージはソビエトに対する「鉄のカーテン」になぞらえて、『竹のカーテン』と呼ばれた。
『ダブルちくわ戦闘機』
足りないもの
かくして早々に核兵器は配備した中国であったが、その他の部分は全く追いついていなかった。
例えば超音速戦闘機。最も目立つものであるが、中国には無かった。一方当時はアメリカから潤沢な支援を受けていた台湾は、1958年以降F-100の配備を進めており、その点MiG-15しか無い中国は多いに見劣りしていた。
何とか超音速戦闘機をモノにしたい。
しかし、独自開発しようにもアテが無く、そもそも航空機の製造すら初めてのことである。
という訳で、頼れるものはソビエトだけだった。
関係が悪化する中でも必死に(しかし下手に出ない程度で)頼み込み、1961年にはMiG-19、引き続いてMiG-21の生産権利を獲得する。そして中ソ関係はこの間にも容赦なく冷え続け、何も学ばない内に技術指導のソビエト技師は帰国してしまった。それから先は、残された図面・見本部品をもとに製造法を割り出し、一つ一つ作っては評価するという地味で地道な作業が始まる事になる。
そんな中も社会は1958年~1962年の「大躍進政策」で混乱し、これで一度は失脚しかけた毛沢東が復権を図って「文化大革命」を主導した。さらに中国社会は輪にかけて混乱し、また「紅衛兵」という狭隘な思想団体も生まれ、これがナチス親衛隊同様に暴虐を働き、更に思想の先鋭さを競って仲間内で闘争を始める始末だった。これは『革命は暴動』とまで言い切った毛沢東でさえ、さすがに看過できるものではなく、こうした者達を引き離す意味でも「下放」が行なわれた。そして昨日までインテリ生活を送っていた者達に、ましてや大躍進で荒れ果てた地方での生活は過酷であり、ここでも多くの死者を出している。
これでは最新鋭戦闘機の開発なぞやってられるものではなく、更に開発メンバーでさえ「反革命」のレッテルを貼られて追放される始末だったので、作業は遅々として進まなかった。遅れのための繋ぎだったJ-12ですら遅延で中止される有様で、J-7が初飛行した頃には1964年になっていた。ソビエトではこの年MiG-23やMiG-25の開発が始まっており、もはや綺麗に一周以上遅れてのスタート地点だった。
J-7で至らなかったもの
ソビエトのMiG-21は火器管制能力こそアメリカ機に劣るものの、J79に迫る高出力と軽量さによりF-4すら上回る空戦能力を誇る。
しかし、戦場とは戦闘機同士がクルクル回って競争する場ではない。MiG-21は格闘戦用戦闘機としては優れていたものの、高高度戦闘能力は不足していた。1950年代末期はU-2のような高高度偵察機が実用化され、しかもソビエトには追い付ける戦闘機が無かった。見張られていることは分かっていたが、対空ミサイルは無く、戦闘機もはるか手前で息切れしてしまう。全く手出し出来なかったのである。
そこで時代は高度20000m以上に到達できる戦闘機を求めた。
それがソビエトではMiG-25だったのだが、中国が作り上げたのがこのJ-8である。
といっても、既にソビエト最新技術に接することはできず、1962年時点でようやく知ることができたのはYe-152Aの公開写真くらいだっただろう(1961年初飛行)。高性能化の答えが双発化とはいささかワザとらしい気もしただろうが、中国の技術陣はこれに飛び付く他なかった。
「フィンバック」登場せり
J-8の開発は全天候・高高度用戦闘機として1964年に始まった。
当時流行の大出力エンジンを備え、強力なレーダーで以って敵爆撃機を彼方から探知し、長射程のミサイルで攻撃する迎撃戦闘機(ミサイリアー)である。目標はU-2などの偵察機、またはA-5やB-58、Tu-16といった高高度で侵入する爆撃機である。このため速度・上昇力が求められていて、高出力化は必須であり、新型のターボファンエンジンの開発が待たれた。
しかしエンジン開発は出来なかった。
航空機開発もようやく始まったばかりという中国に、科学技術の最新鋭を求められるエンジン開発は、まだまだ早かったようである。当時の中国に使い物になりそうなエンジンはJ-7用に国産化したWP-7しかなかった。J-8は本当のところ「拡大J-7」ではなく、もう少し洗練される予定だったのかもしれない。現在の姿は、失敗の可能性をできるだけ下げたかったが故のものだろう。
初飛行はベトナム戦争もたけなわの1969年7月で、開発から初飛行まで5年という数字は当時としても「ちょっと長引いた程度」で普通の範囲である。
You Know 苦悩
が、J-8の苦悩はそこから始まった。
明らかに守旧的な機であったものの、実力から「背伸び」して設計・製造された事もあってか、いざテストに入ると不具合が続出した。エンジンや機体の過熱、振動などに悩まされ、原因解明・対処のための科学知見にも不足していたせいで、時間ばかりが過ぎていった。
第一、双発にすれば即パワー2倍になるというだけではない。
同じエンジンを隣同士収めるのだから、振動が起きようものなら即共振になり、隣り合った面は冷えにくいから熱処理も単発より難しくなる。そして冷却が追い付かなくなれば、燃料・滑油が発火点を超えて出火する事態も考えられるだろう(実際にJ-8Ⅰでは1号機が地上試験で全焼している)。対処すべき面倒事も倍では済まなくなるのだ。解決まで手間取ったのは、技術的な蓄積が無かったので「手探り」で対処するしか無かった結果であろう。
空力はJ-7を踏襲しようとした跡がうかがわれ、細かいところも似ている。
主翼外翼部の境界層板は健在で(形状は若干違う)、尾翼にもMiG-21以来のマスバランサ突起が出ている。胴体は中央に若干のくびれがあり、これはエリアルールとして音速付近の空力を良くする工夫になるだろう(後部胴体を太くする上でのついでかもしれない)。
武装
戦闘機として重要な部分となる武装であるが、J-8ではこれも難航した。
まず対爆撃機用に威力を重視した30Ⅱ型30mmガトリング砲が完成しなかったので、仕方なく従来の30Ⅰ型30mm機銃を、生産型ではJ-7と同じく23Ⅲ型23mm機銃が継続して使われた。
また、ミサイルにはPL-4中距離空対空ミサイル(おそらくR-8やAIM-7辺りに相当する)が開発される筈だったが、これも開発が難航して進まず、暫定的にPL-2(AIM-9コピーのそのまたコピー)が搭載される。結局PL-4はその後も難航し続け、1985年に中止されて完成しなかった。
他にも武装は左右主翼と胴体下計5か所に設けられたハードポイントに搭載できる。
総重量は不明だが、増槽3本にPL-2(もしくは発展型のPL-5)を搭載している写真はあるので、それなりに搭載できる模様。もちろん爆装も可能であろうが、レーダーが対地目標に無力なので実際には用いられなかったようだ。
レーダーFCS
また、レーダーも中国初であり、産みの苦しみを味わった。
機体が設計上の問題を克服して無事に「飛ばせる」ようになった頃には1981年になっていた上に、いまだレーダーは未実装であった。しかも(これはMiG-21でも問題になった事だが)機首のショックコーン内に収める方法では強力なレーダーを搭載できなかった事と、あとは技術的問題により性能十分なレーダーも無かった。
しかも最初はそれこそ「原始的な」とまで言われる204型距離測定レーダーしかなく、これでは敵機の捜索などは夢のまた夢。レーダーがSR-4として完成した頃には1984年になっていて、J-8ⅠではSL-7Aを苦労して実用化したが、これはF-4E(APQ-120)比で半分強の能力でしかなく、その上ルックダウン能力・対地攻撃モード未実装と、こちらも要求を大いに下回った。
SL-7AとAN/APQ-120
APQ-120では、戦闘機サイズの目標を70kmで探知できるといわれる。
ただし探知範囲は相手のサイズ・距離などによって決まるため、これだけの資料で一概に強弱を論じる事はできない。しかし一般にレーダー能力はレーダーアンテナの大きさが判断材料とされる為、少なくともF-4より大きいという事は無いだろう。
「時代遅れ」の果てに
こうしてJ-8は苦労に苦労を重ねて、ようやく実用化された。
しかし、実現した性能はとても実戦投入に見合うものではなかった。肝心の生産数はわずか120機程度であり、これではJ-7を入れ替えることはもちろん、輸出の主力に替わることもできなかった。
その後、瀋陽航空機工廠は能力向上を図ってJ-8Ⅰを開発する。
レーダーやミサイルは発展型(例えば上記のSL-7A)となり、確かに実用性は上がったものの、それでも世界一線級の能力には程遠かった。そうこうする内に時代はさらに下り、米ソのミサイリアーF-106もTu-128も、生産はとっくに終了していた。ミサイリアーの時代は過ぎ去ってしまったのである。
計画から実用化まで20年も掛かっており、開発費用もタダでは無かっただろう。
もちろん機体価格にも跳ね返っただろうから、要するに高価・低性能で残念機になった筈だ。
そして、ここで諦めようにも他にアテも無かったので、改良を続けるしか無かった。今度は「本格的な戦術戦闘機」への転身である。
こちらのアテはあった。
遠く海を越えたアメリカ、グラマンの力を借りようというのである。
『ダブルちくわ戦闘機・改』
アメリカ政治史に負ぶさった中国戦闘機
それは遡ること1971年、共和党政権ニクソン時代のこと。
ベトナム戦争もいよいよ敗色が濃くなり、朝鮮戦争も燻ぶったまま時間ばかりが過ぎていた。政治的にはいい加減にベトナム撤退(=敗北)を認め、共産陣営とも上手く和解しなければ、次の戦争の火種を残す境地に差し掛かっていた。
ニクソン大統領は現状でも中国とは朝鮮戦争で対立していたが、これはデタント政策によって改善しつつあり、ついでにこの「北ベトナム最大の支援国」からの圧力でもって和平交渉をうまく進めようという意図があった。秘密裡の交渉が行われた後、1972年には北京を訪問し、周恩来と握手する様子が報道された。国際平和の観点からは功績のあった大統領だったが、同年ウォーターゲート事件が発覚して1974年に辞任することになった。
この方向性は続くフォード大統領でも続き、1975年にはニクソン大統領に引き続いて北京を訪問し、中国との関係改善を進めた。しかしそうなると今度は国民党との関係が問題になり始める。「中国はひとつ」である。2つの政府と交渉する訳にはいかないのだ。これは北京にとっても台北にとっても問題だった。
これがアメリカ民主党政権、ジミー・カーター時代に決定的になった。
1979年、アメリカは中華人民共和国との国交を樹立し、中華民国とは断絶したのである。
しかし、みすみす自由主義陣営国をひとつ失う訳にもいかない。そこでアメリカは「台湾関係法」を制定し、表向きは共産党中国と手を結ぶ一方、裏では国民党台湾にも影響力を残しておく事にした。
これが現在も続く沖縄駐留海兵隊や、また武器供与を絶たれた台湾がF-CK-1といった独自の兵器開発に乗り出す切っ掛けにもなるのである。
大改良!劇的ビフォーアフター
グラマンからのテコ入れの効果もあり、J-8Ⅱは大きな変貌を遂げた。
まずは大口を開けていたエアインテイクが胴体左右に移り、これで機首をレーダー専用にできた。他にも機体設計には大きく手が加えられ、例えば水平尾翼はマスバランサ突起のないテーパー翼に変わっている。エンジンはツマンスキーR-13(MiG-21後期型用)を国産化したWS-13Bで、約60KNだった出力は約70KNへ向上した。弱点だったレーダーFCSもAN/APG-66(V)に更新される予定で、1989年には2機がアメリカに送られて適用改造を受ける予定であった。
が、このまま順調に行かないのが中国であった。
1989年6月4日、天安門事件が勃発。
この事件への制裁としてJ-8Ⅱ開発協力はすべて反故にされ、それまで中国に融和的だった政策はすっかり硬直化してしまった。
もちろんグラマンの開発技師も帰国し、導入される予定だったAPG-66(V)もすべて召し上げになってしまう。J-8は、またもや単独での開発を余儀なくされてしまうのだった。
しかし挫折はこれまでもよくあった事。ここであきらめる中国ではなかった。
J-8の開発が中断される事はなく、それは今なお中国空軍で主力の一角を占めるとおりである。
主な派生型
J-8
1969年に初飛行した昼間戦闘機型。
迎撃戦闘機として開発されたが、レーダーは測距用、ミサイルも短距離用と、能力不足は明らかだった。少数生産、主に試験に使われる。
J-8Ⅰ
1981年に初飛行した全天候戦闘機。
SL-7Aレーダーを搭載し、ようやく昼夜を問わない作戦が可能になった。
しかしレーダー誘導AAMは持たず、迎撃戦闘機としてはやはり能力不足であった。
後に一部がJ-8Eへと改造される。
J-8Ⅱ
1984年初飛行。本格的な戦術戦闘機を目指して強力なレーダーを装備すべく、エアインテイクは胴体左右に移設している。
エジプトから入手したMiG-23の影響か、大型の境界層分離版を備え、エンジンはツマンスキーR-13を国産化したWS-13の双発となっている。レーダーは40km級の探知範囲があるSL-4A。
J-8B
1989年初飛行。J-8Ⅱ最初の本格生産型で、機銃に23mmタイプ23-Ⅲ(Gsh-23Lのコピー)を標準装備するあたり、旧式ながら第4世代ジェット戦闘機の特徴も取り入れている。コクピットや電子機器は大幅に近代化されて、航法装備などは大幅に充実した。地上管制システムとの同調機能も備え、自動操縦による自動接敵も可能。
機外に吊架する武装にはPL-5(サイドワインダーの改良型コピー)、PL-8(イスラエル製「パイソン」AAMのコピー)を最大4基、有効性はともかく各種爆弾やロケット弾など。
後期生産機からはFCSが国産のKLJ-1となった。
一部(30機程か)はJ-8D相当の改造を受けたと見られる。
J-8Ⅱ「ピースパール」(計画ではJ-8Cとなる予定だった)
「ピースパール」計画のもと、グラマンのテコ入れで高性能化したJ-8Ⅱ。
1989年初頭に24機がアメリカに送られて改造されたが、天安門事件の影響でそれっきり打ち止めになる。
J-8D
1990年初飛行。受油装置を付けて空中給油に対応。機体も改設計を受けて、従来以上の高荷重にも耐えられるようになった。一部はのちにJ-8F相当の近代化改造をうけてJ-8DFとなる。
J-8E
J-8Ⅰが90年代に近代化改修を受けたもの。
電子機器の一部がJ-8Ⅱに準じたものに換装され、特にレーダーFCSはルックダウン・シュートダウンにも対応。J-8Ⅰ最後の現役型で、これからJ-11などに入れ替えられるものと見られている。
J-8Ⅲ(J-8C)
1993年初飛行。天安門事件でアメリカからの協力を絶たれた後、イスラエルとロシアの技術でこれを補おうとしたもの。レーダーはEL/M2035に換装され、操縦にはフライバイワイアを導入、他にもエンジンは新型のWP-14と、大幅な進歩を遂げるはずだった。
試作2号機が墜落して計画は中止されたが、この件で得られた成果はJ-8Fに生かされた。
J-8ⅡM
1996年に公開された輸出用戦闘機。ロシア製「ファザトロン」ズーク8ⅡレーダーFCSを備え、MiG-29並みの火器管制能力を実現したもの。もちろんR-27(NATO名:AA-10「アラモ」)やKh-31対レーダーミサイル等も運用可能。
その時は結局買い手が付かなかったものの、2004年に国産のJL-10Aレーダーに換装した改良型が登場している。これは主にイランに売り込まれたようだが、やはり買い手にはならなかった。
J-8H
1998年初飛行。KLJ-1レーダーに新型の火器管制装置を組み合わせてPL-11の運用が可能になり、念願の本格的な視界外戦闘(BVR)能力を手に入れた。主翼も設計が見直され、重量化を補って操縦性を改善した。
J-8F
2000年初飛行。
最新の現行型であり、149Xマルチモードレーダーを装備してグラスコクピット仕様となり、シリーズ中初めての本格的マルチロールとなった。
J-8T
2008年に公開された輸出型で、J-8Fに準じたもの。
しかし採用国は現れず、生産される事なしに終わった。
フィンバックの最後に
J-8のこれまでの生涯は、まさしく「茨の道」であっただろう。
実用化までに数々の困難が立ちはだかり、その一つ一つを乗り越えて、ようやく完成まで漕ぎ付けたのである。
これまでJ-8には時代ごとの、中国に入手可能だった技術の最先端が投入され続け、初飛行から50年が経とうとしている今日でさえ、なお世界最新鋭の水準に追いつくべく強化を続けている。その過程は試行錯誤の連続であり、その過程で得られた多くの知見により、J-8は大戦後立ち遅れていた中国の航空技術を押し上げた立役者だといえるだろう。
生産期間は1979年から2010年までの31年間で、これは期間で考えればF-15には及ばないものの、それでも長期にわたって更新されつつ生産された。要するに「他に無かったから」と言えば簡単なのだが、それでも地道な改良を続けることで、戦闘力は高い水準にあると見て良いだろう。
総合的にいえば、J-8の発展は中国戦闘機の歴史そのものである。
最初は第2世代の発展から始まって、とうとう第4世代にも肩を並べる程度まで進化した。
性能面ではSu-27(及びJ-11)が導入されると見劣りするようになってしまったが、その活躍は生産終了が2010年だった事からみてもしばらく続くはずで、設計の古さにより耐G性能が低い(高度5000mでの維持旋回で5G弱程度)ことからして、空戦用ではなく戦闘爆撃機として現役が続くものと思われる。
参考
日本周辺国の軍事兵器 J-8戦闘機(殲撃8/F-8/フィンバックA)
日本周辺国の軍事兵器 J-8II戦闘機(殲撃8B/F-8II/フィンバックB)