概要
中国,五代前蜀の建国者。廟号は高祖。字は光図。許州舞陽(河南省舞陽県)の人。
生涯
蜀を得る
許州舞陽県に生まれる。若い頃は無頼の徒で、塩の密売などに従事し、賦王八と呼ばれていた。後に忠武軍の兵卒ついで隊将となり、黄巣の討伐に参加。蜀に逃れていた唐の僖宗のもとに赴いて喜ばれ、観軍容使の宦官・田令孜(でんれいし)の養子にされた。自ら求めて西川監軍となった田令孜に代わって、観軍容使となった楊復恭によって、四川の壁州刺史に任じられた王建は亡命者などを糾合して勢力を築き、大順2年(891年)、成都によっていた西川節度使陳敬瑄と監軍の田令孜らを殺し、ついに唐から西川節度使に任ぜられた。ついで、東川の地を、天復元年(901年)には山南の地をも併合し、ほぼ四川全土を統一した。903年、蜀王に封ぜられたが、朱全忠が梁国を建てたのに呼応して、自ら帝号を称し、大蜀国を建て都を成都においた。
即位
天祐4年(907年)に唐が後梁に滅ぼされると、後梁の支配を嫌い、皇帝を称して元号を天復と改め、国号を大蜀と定めた。後世の史家は前蜀と呼びならわしている。
天然の要害である地理条件と、塩や鉄といった重要資源を豊富に産出する経済条件を利用し、在位期間中は国内の安定に力を注いだ。農業振興と水利事業を推し進め、「与民休息」の政策を実現した。また、多くの文人が平和を求めて前蜀に移動し、彼らを保護する文化振興政策も実行している。しかしその反面、国内への監視に注意を払い、「尋事団」と呼ばれる秘密警察を作り、不満分子を圧殺した一面も有している。
918年、72歳で没した。
関連イラスト
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別名・表記ゆれ
関連タグ
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