説明
墨子は春秋戦国時代の思想家の墨翟の尊称であり、彼とその門人の学説を集めた書物(53篇のみ現存)の名前でもある。
諸子百家のうちの、墨家の開祖である。
出身は魯(今の山西省)とも、宋(今の河南省)とも、楚(今の湖南省・湖北省)ともされる。
元は儒教を学んだもののその思想に満足せず、兼愛(博愛・平等主義)・非攻・節倹を説いたが、孟子からは異端邪説として非難された。
実際に墨家は孔子の教えの多くを否定したし、その思想は言ってしまえば平和主義だが防衛のための戦争は否定せず、築城や防城兵器(ちなみに中国の城は城壁に囲われた都市全体を指す)の研究開発まで行なっていた。
有名な逸話として、次のようなものがある。
あるとき楚の王が公輸盤(魯班とも呼ばれる伝説的な大工)が開発した攻城兵器「雲梯」を使い、宋の国へ侵略しようとした。
これを聞いた墨子は楚王の元へ向かい、中止するよう説得し、公輸盤と机上でのシミュレーションを行って雲梯による攻撃を防ぎ切ってみせた。
面子を潰された公輸盤は「自分にはまだ秘策はあるが、この場では言わない」と意味深なことを告げるも、墨子は「秘策というのはここで私を殺してしまうことだろうが、私が死んだところで宋には我が防城兵器を授けた弟子300人を送ってある」と言い返し、それを聞いた楚王は侵略を取りやめた。
宋へ戻った墨子は城門で雨宿りしていたところ、何も知らない宋兵に乞食と間違われて追い払われてしまった。
その後、大勢力となった墨家は指導者を「鉅子」と呼び、独自の軍事組織を保有し各国の防衛戦に協力するという、諸子百家の中でもかなり異質な存在となった(兵家は国家の軍略や政略を説くのに対し、墨家は国に仕えず独自の指揮系統で戦っていた)。
城を守りきれなかったときには400人もの墨家が集団自決したこともあり、宗教集団のような側面も強かった(実際に「子は怪力乱神を語らず」とした儒者に対し、墨家は人間に賞罰を与える鬼神の存在を語り、崇拝していた)。
そんな墨家も秦による天下統一の前後に分裂し、やがて消滅することになった。
墨子をモチーフにしたキャラクター
王者栄耀の墨子。