概要
春秋戦国時代期の中華圏で発生した様々な思想を唱える学者たちのこと。
春秋戦国時代期の古代中国は、各地に軍閥や小国が乱立し戦禍の絶えない時代だった。特に春秋時代も後期になると戦争が激しく大規模になり、戦国時代にはそれまでどうにか保たれていた東周の権威も完全に失われ、それぞれが王を名乗る混沌とした時代となった。その時代において、最も重要なことは如何に国を支配するのか?、如何に強い国家をつくるのか?、そして如何に戦争に勝つのか?という事だった。
そうした中、殷末期から西周時代にかけてゆるやかに広がっていた文字媒体が西周の滅亡で一気に諸国へ伝搬し、文字を使用する人口が急増した。結果古代中国各地では様々な思想や哲学が発生し、多くの国々に持ち込まれ、影響を与えた。
諸子百家という枠組みは後世のものであり、はっきりと学派を有していたのは儒家と墨家くらいで、法家も似た考えを持つ人物達が個別に思想を形成し、道家などはそもそも思想的にそういった学派を形成することはなかった。また、各学派は互いに論敵にもなり得たが、同時に互いを学習し(後述)影響し合う関係でもあり、後期になるにつれて互いの思想の影響を受けた思想家が生まれていった。
六家
様々な思想・哲学が存在するが、特に前漢初期の司馬談が分類した六学派であるを六家がよく知られる。
孔子の教えを基にした思想を持つ人々のこと。
儒学が展開する主張は倫理、人間関係、礼法、国家論など多岐にわたるが、あえて簡潔に述べるのであれば「徳目を修め人間関係を構築・維持すること」「その道に通じた人物が国家の統治者にふさわしい」という考えが最も基本的な儒教の教義である。この儒家の思想は、後に中華圏を初めとして様々な地域に派生して影響を与えており、中華系哲学の基礎の一つとなった。孔子は乱れた世を正すためには、世が安定していた時代を参考にすべきであるとして古の聖人達、特に王族でありながら自らは王位に就かなかった周の宰相・周公旦を理想視して思想を形成したことに特徴がある。
一国の最高裁判長核に上り詰め、政治闘争にもしばしば参加した孔子の関心を反映して国家論にもかなり深く言及しており、往々にして理想主義的、復古主義的と評される。春秋戦国時代は墨家と並ぶ一大学派であり、のちに漢字文化圏における精神文化に与えたその影響の大きさもあり、東アジア社会に残る諸弊害の元として批判を受けることも多い。
国家論に特化した思想であり、儒家が唱える道徳主義的な徳治思想に対して、明確で厳正な法による賞罰を規定した国家運営を唱えるなど、近代国家的思想に近い。軍事的衝突が多かった諸侯のニーズに合うところが多く、儒家と違って明確な学派は形成しなかったが、多くの法家思想の持ち主が各国で活動をし、戦国末期に韓非子が老荘思想も取り入れてまとめ上げた。
特に秦は商鞅以来法家思想による統治が実践され、いち早く中央から派遣された官僚による各地の統治を行う中央集権制を早い段階で敷き、完成度も他国と比べて一日の長があった。しかし、秦の領域が急速に拡大した統一事業~始皇帝の死の時代は厳格な法の支配に慣れ親しまなかった旧六国の遺民より不満と恨みを買うこととなり、法家的な統治が全土に浸透するのは封建的君主が消滅した呉楚七国の乱以降となる。
以降の中国王朝は儒家と法家の思想を巧妙に取り入れた統治を実践しており、また法家の集大成的存在である韓非子と後の秦の宰相李斯は共に荀子に師事し、その思想の影響を受けている。
軍事思想および戦術・戦略を取り扱った思想。
西洋においては戦争の際に過去の英雄の戦術行動を参照することはあったものの、戦争に勝つためのメソッドを体系的に研究・構築するという発想そのものが欠けており、近代になってナポレオンの作戦行動を分析した『戦術論』や『ランカスターの法則』といったものが発表されるまで待たなくてはいけなかった。それに対して、2000年以上前からその問いと答えを独自に研鑽したのが孫子である。
法家同様学派は作らず、また呉子は一時期儒家に師事したこともあった。
現代では儒家と共にビジネスマンや政治家の自己啓発目的に好んで読まれることも多い。
老子・荘子の唱えた老荘思想を基とした思想。後にそこから中国独特の仙人思想と習合して、道教へと発展する。
法家同様厳しく儒家を批判した思想としてよく知られているが、その代替案として厳格な統制を旨とした法家と違い「無為自然」に代表される、最低限の事をし後は自然の成り行きに従うことを理想とした。しばしば「何もしない怠惰な考え」と誤解されがちな思想だが、「すべきことはして後は結果を待つのみ」という考えの方がより近い。
老子が人に請われて書を残して去ったという伝承が示すように、老子達自体があまり記録を残したり啓蒙することに熱心ではなかったため、老子の存在すら疑わしいという意見は司馬遷の時点で既に存在し、現在では孔子より100年以上後代あるいは架空の人物ではなかったかという説すらある。また、老子はまだ政治に対する関心を持っていたが、荘子になるともはや政治の世界からほぼ離れ、哲学的・宗教的世界へ関心が向けられており、俗世間に積極的にかかわる姿勢を見せなかった。
このように超然的な思想のため、後の国家権力からは儒家や法家の様な扱われ方はされなかったが、ともに権威主義・形式主義に陥りやすく権力者サイドの視点が主である儒家や法家には対応しきれないニーズを埋める形で中国社会で受け入れられ、発展していき今日まで命脈を保ち続けている。
墨子によって唱えられた思想。
人間愛を基本に、人を愛することが平和につながると考えた思想。
博愛主義と人道主義を基礎とした倫理を重んじる面は諸子百家の中では儒教に通じるものも多いが、身分制度に対する考えの違いからよりキリスト教に近い。軍事については徹底して侵略戦争を否定するが、専守防衛は肯定しており、そのための具体的な防衛戦についての研究も行っていた。
身分制度を前提とした他の多くの学派と違い、墨家は平等愛を主張したため危険思想扱いされることも多く、特に儒家は勢力を争っていたこともあって厳しくその思想を批判した。また、そうした思想のため墨家の学派は儒家よりもより共同体意識が強固で、墨家の遊説家が訪問先で苦労が無いよう衣食住の便宜を図るなど、組織的傾向が強かった。
このように、春秋戦国時代の諸侯が割拠する状態については対症療法的に現状維持を容認し、平和的共存を目指す立場であったため、秦の統一事業が完遂する前後にその歴史的存在意義を急速に失って衰退し、消滅した。
自然科学と哲学を融合させた思想。
世界の万物の生成と変化は陰と陽の二種類に分類されるという陰陽思想を基にした、占いが主な思想となる。
戦国時代末期に五行思想と一体となった陰陽五行思想として東アジア文化圏に広まった。陰陽五行は、世界の成り立ちだけではなく国家存立の正当化にも用いられ、例えば漢代では周の権威を利用するために王朝は土徳から周と同じ火徳へ再定義されることとなった。
いわゆる日本における陰陽師などもこの陰陽家の思想を受けて発生している。
関連項目