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近藤勇の編集履歴2013/03/21 22:04:34 版
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概要

江戸時代末期(幕末)の武士新選組の局長として知られる人物。

もともとは多摩の農家の生まれであるが、当時通っていた天然理心流の道場にて盗人を退治するなどの活躍が認められ、師である近藤周助(近藤周斎)の養子となる。

文久3年(1863年)、同門の土方歳三沖田総司らとともに、14代将軍徳川家茂の警護部隊「浪士組」に参加し上洛。その後、江戸帰還を提案されるが、近藤一派と水戸郷士・芹沢鴨ら一派とともに京に残留。京都守護職を務める会津藩預かりの治安組織「壬生浪士組(後の新撰組)」の隊長(呼称は局長)となる。

戊辰戦争では関東へ敗退し、新政府軍に捕まり処刑(斬首)された。

逸話

生誕から没年まで何度も改名しており、後年に名乗った偽名を含めば5~6通りはある。

農民時代の宮川勝五郎から始まり、周助の実家である嶋崎家に養子に入ってからは嶋崎勝太に改名。

天然理心流宗家を正式に襲名した頃からは嶋崎勇近藤勇と名乗った。

また、新撰組が「甲陽鎮撫隊」と名を改めた際には自身を大久保大和守剛と称した。

幼少の頃から父・久次郎から「三国志」や「水滸伝」などを読み聞かされた影響からか、武士に強い憧れを抱いていたといわれる。新撰組の隊服である段だら模様の羽織袴は忠臣蔵の演劇での赤穂浪士の装束を真似たとされる。また、口が大きく拳骨を丸ごと口に入れるという特技を持っていたが、これも戦国の武将・加藤清正の特技にあやかったとのこと。

また、刀剣の話が好きで愛刀は長曾祢虎徹であったとされるが、偽銘だったともいわれている。

関連タグ

武士 江戸 幕末

新撰組

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