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フランス王国の編集履歴

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フランス王国

ふらんすおうこく

現在のフランス共和国にかつて存在し、その前身となった王国。987年のカペー朝の成立後を一般的に「フランス王国」と呼んでおりこれを前提とすると1848年にオルレアン朝が倒れるまで第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約860年続いた。

概要

英:Kingdom of France 仏:Royaume de France

現在のフランス共和国にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国にまで遡るが、一般には987年のカペー朝の成立後を「フランス王国」と呼んでおり、これを前提とすると、1848年にオルレアン朝が倒れるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約860年続いたことになる。

創作においては、しばしば中世ファンタジーのモデルになる事が多い国でもある。

国歌

  • 496年から1791年まで

God save the King / Dieu sauve le Roy

  • ブルボン朝時代の国歌

Hymne Royal "Vive Henri IV" - Maison de Bourbon

First French Empire / Primer Imperio Francés (1804-1815)


歴史

フランク王国の分裂

西暦481年にクロヴィス1世により建国されたフランク王国は後に彼の息子達に分割相続され、数百年間の分裂期を経た後に8世紀後半にカロリング朝のカール大帝シャルルマーニュ)により統一され、そして急拡大した。やがてカール大帝が没した後に彼の末子である敬虔帝ルートヴィヒ1世(ルイ1世)が後を継ぐが、彼は死期が近付いている事を察して817年に帝位継承や相続領の割り当て等を規定した「帝国整序令」を発布する。

やがてルートヴィヒ1世は840年に死去し、彼の3人の息子達の間で皇帝位や相続領を巡る争いが勃発した。最終的には842年に3人は和平を結び、843年に王国分割に関する「ヴェルダン条約」が締結された。こうしてフランク王国はそれぞれ西フランク王国東フランク王国中フランク王国の3つの王国に分裂した。


西フランク王国(カロリング朝)

西フランク王国を統治する事になったのはルートヴィヒ1世の末子であった禿頭王シャルル2世だった。しかしシャルル2世の治世は多難を極め、特に彼を悩ませたのは北方から侵入して来るヴァイキング(ノルマン人)だった。西フランク王国は845年と885年の二度に渡って王都パリをヴァイキングの大軍勢に襲撃されたが、それぞれ当時の国王だったシャルル2世と肥満王カール3世は対抗する術を持たなかった。というのもこれはクロヴィス1世の頃から諸侯の力が強く、国王の権力基盤は極めて脆弱だった為であった。彼らはヴァイキングに和解金を支払う事で引き上げてもらう事に成功したものの、まともに抵抗できなかった事もあって諸侯の不信感を募らせ、国王の権威は失墜した。

885年のパリ襲撃の際に活躍した人物にパリ伯ウードがいた。彼はパリ襲撃の際におよそ1年近くヴァイキングの猛攻に耐えた後に撃退する事に成功し、そしてカロリング家の者ではないにも関わらず888年に西フランク王に即位した。そして彼はシャルル2世の子である単純王シャルル3世と893年から共同統治する事となり、898年にウードが亡くなった後はシャルル3世の単独統治となり、こうしてカロリング家は再び王族として復活した。

シャルル3世は北方に住み着いたヴァイキングの長であるロロにノルマンディー公の地位を与え、他のヴァイキングの勢力の防波堤にしようとした。やがてロロが治めたノルマンディーは「ノルマンディー公国」となり、約100年後にはギヨーム2世によりノルマン・コンクエストイングランド征服)が達成された。ギヨーム2世は「ウィリアム1世」としてフランス臣下のノルマンディー公でありながらイングランド王を兼任し、また彼が創始したノルマン朝は現在のイギリス王室の祖先ともなるが、これは後の百年戦争の遠因ともなった。


カロリング朝の断絶・カペー朝の成立

相次ぐ外敵の侵略、連続する短命な王の治世、有力家臣による王位簒奪、諸侯による反乱の頻発など、シャルル2世以降の西フランク王国の政情は常に不安定だった。特にウードによる簒奪以降はただでさえ弱体だったカロリング朝は急速に衰退へ向かう。そしてカロリング朝最後の王だった怠惰王ルイ5世が事故で急死し、彼には嫡子がいなかった事からカロリング朝は断絶した。東フランク王国でも同時代にカロリング朝が断絶しており、カール大帝の血筋は200年も持たずに滅びた。

カロリング朝の断絶後は諸侯による選挙で国王を選出する事となった。有力家臣であった大ユーグの子であったユーグ・カペーは諸侯の支持もあってこの選挙で国王に選出され、西フランク国王(フランス王)に即位し、これによりカペー朝が創始された。

ユーグ・カペーの即位を以てフランス王国の始まりと一般的には見られているが、実際には王朝がカロリング朝からカペー朝に変わっただけで国家や体制そのものは西フランク王国と変わっていなかった。また「フランス(France)」の国名も元はフランク王国を意味しており、これはフランク王国を表すラテン語(Frank)がフランス語読みに変化しただけである。

しかしユーグ・カペーの血が後のヴァロワ朝、ブルボン朝、オルレアン朝へとおよそ1000年もの間脈々と受け継がれていったのは間違いない。


カペー朝

新たな王朝が成立した後も相変わらず王の権力は弱体であり、その力もパリ周辺にしかほとんど及ばない有り様だった。しかしカロリング朝とは違って長生きした王が多かった事もあって王位継承問題は落ち着き、王の長い治世が続くにつれて次第に権力は安定していった。そして弱体な権力に1108年に即位した肥満王ルイ6世の頃に転機が訪れる。神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世による侵攻を受けた際、ルイ6世の側近であったサン=ドニ大修道院院長シュジェールがオリフラムと呼ばれる軍旗を掲げて信仰心を用いて諸侯をまとめ上げて神聖ローマ帝国軍を撃退する事に成功し、これを機に段々とフランス王の権力は強まっていく。

アンジュー帝国との戦い

シャルル3世によりノルマンディー公としての地位を与えられたロロは、彼との間で結んだ条約を反故にして勢力拡大を続けた。やがてノルマンディー公国として半ば独立する事となり、ロロの子孫であるギヨーム2世によりノルマン・コンクエストによりイングランドも統治する事となった。やがてギヨーム2世が打ち立てたノルマン朝からプランタジネット朝に移るとヘンリー2世により急速に領土拡大が進む。彼はアイルランドやウェールズ、スコットランドのみならずフランス本土にも目を向けており、政略結婚やフランス諸侯を従えた事によりフランスの西半分及び北部のノルマンディーを支配下に置いた。ヘンリー2世が築いたこの大帝国は「アンジュー帝国」と呼ばれ、王位はやがて獅子心王リチャード1世欠地王ジョンへと継承されていく。

そのような中、1180年にフランス王に即位した尊厳王フィリップ2世はイングランドの勢力の排除を目標とした。かねてよりリチャード1世と仲の悪かった彼はリチャード1世が十字軍遠征でイングランド不在の隙にジョンに王位簒奪を唆してこれを成功させるが、イングランドに帰国したリチャード1世に王位を取り戻され、戦上手な彼に敗戦を重ねてしまう。リチャード1世がその戦いの最中で戦死し、ジョンが王位を継ぐと、彼は反攻に転じた。ジョンを見限ったノルマンディー公を含めたフランス諸侯は次々とフィリップ2世に寝返った事により彼は諸侯を取り戻す事に成功し、イングランドやそれに同調した神聖ローマ帝国の侵攻も撥ね退けてジョンに完全な勝利を収めた。

こうしてフィリップ2世は内政・外交両方で活躍し、フランス国王の権力強化を果たした。そしてこれは後の絶対王政の下地ともなった。

またフィリップ2世亡き後は古くから独立志向の強かったフランス南部の諸侯にもアルビジョワ十字軍などを経て国王の権力が浸透し、これによりフランスはヨーロッパでは比較的早い段階で中央集権体制が形成される事となった。

しかしまだまだ王権は弱体であり、全国的な支配ができるほどの権力が手に入る(絶対王政)のは15世紀半ば以降の事となる。


ヴァロワ朝

1328年に崩御した端麗王シャルル4世は嫡子が夭折していた為にカペー本家が断絶した。代わってフランス王に即位したのはカペー家の親類であるヴァロワ家出身のヴァロワ伯フィリップであった。彼は幸運王フィリップ6世として即位し、ここにヴァロワ朝が成立した。

百年戦争

しかしフィリップ6世の即位に異議を唱えたのはイングランド国王のエドワード3世だった。エドワード3世はカペー朝第11代フランス国王フィリップ4世の妹イザベルを母親に持っており(つまりはエドワード3世はフランス王の女系の親族)、これを根拠に継承権を主張した。百年戦争の直接の原因はこの継承権問題であったが、それ以外にも様々な問題があった。かつてジョンの失策によりイングランドは領土の大半を消失したがフランス南西部のアキテーヌ地方に僅かながら領土を保っており、フランスはこの奪回を巡って対立していた。また北部の毛織物の主要な生産地であったフランドル地方も巡って英仏両国は対立を深めており、そしてまたエドワード3世が侵攻したスコットランドからフランスへ亡命したスコットランド王デイヴィッド2世の身柄も巡って対立していた。

こうした様々な対立もあって英仏関係は非常に悪化しており、そして1337年にエドワード3世が宣戦布告した事で百年戦争が幕を開けた。緒戦では統制の取れた軍隊を持つイングランド側に対し、指揮系統が整っていなかったフランス側はフィリップ6世や善良王ジャン2世の失策もあって敗戦を重ねた。イングランド軍の捕虜となったジャン2世がイングランドで客死した事を受けて、彼の王太子であったシャルルが賢明王シャルル5世として即位した。シャルル5世はまず税制を抜本的に改革して財政難を克服する事に成功した。また彼は優秀な将であったベルトラン・デュ・ゲクランをフランス軍の総司令官に任命して緒戦の劣勢を覆す事に成功し、黒死病の大流行もあって1375年にイングランドとの間で休戦が合意された。

一方イングランドでは政変が発生して1399年にリチャード2世が廃位されてプランタジネット朝が倒れ、代わってヘンリー4世が即位した事でランカスター朝が成立した。また一方でフランス国内でもシャルル5世の子である狂気王シャルル6世発狂して政務が執れなくなった後には彼の家臣や王弟達が国家財政を恣にし、やがて彼らは政治の実権や対英方針を巡り対英強硬派の「オルレアン派(後にアルマニャック派)」と親英派の「ブルゴーニュ派」に分裂して内紛が始まり、両勢力ともイングランドに救援を求めるなど対立は泥沼化していった。

イングランドは当初オルレアン派と同盟を結んだが、1413年のヘンリー4世崩御後にヘンリー5世が即位すると今度はブルゴーニュ派に鞍替えした。そしてフランス国内の内紛を好機と見た彼は再びフランスへ侵攻してアザンクールの戦いにおいてオルレアン派を破るが、ブルゴーニュ派もイングランドの攻撃を受けており、これによりブルゴーニュ派とオルレアン派の間で和解交渉が始まった。しかしブルゴーニュ派の筆頭であった無怖公ジャン1世がオルレアン派に暗殺された事で交渉は決裂し、ブルゴーニュ派は独自でイングランドとの間にトロワ条約を結んだ。シャルル6世の死後にヘンリー5世がフランス王位を継ぐ事を取り決めたこの条約により、イングランドの勝利は決定的となった。

しかし事態は急変する。1422年にヘンリー5世が急死し、シャルル6世もその2ヶ月後に亡くなる。ヘンリー5世の遺児がヘンリー6世として即位するものの、彼は生まれて数ヶ月の赤ん坊であり求心力は薄かった。そしてこの頃にシャルル6世の嫡子かつオルレアン派の盟主であり、トロワ条約で継承権を剥奪された筈の王太子シャルルが、シャルル7世として即位をパリ南方のブルージュにおいて宣言し、イングランドへの抵抗を開始した。一方のイングランド側も攻勢に出、王太子シャルルの根拠地であったブルージュへ侵攻を開始し、オルレアン市を包囲し始めた。

そこで本戦争最大の英雄であるジャンヌ・ダルクが登場する。彼女に導かれたフランス軍は1429年にイングランド軍により包囲されたオルレアン市を僅か7日という驚異的なスピードで解放し、士気が高揚したフランス軍は破竹の勢いでロワール川沿いの地域を次々と解放していく。そして1429年7月17日に王太子シャルルは解放したランス市内のノートルダム大聖堂において戴冠式を行い、正式にフランス国王として即位した。一方のジャンヌはパリ解放に臨むも失敗し、1430年のコンピエーニュの戦いでイングランド軍の捕虜となり、1431年に火刑に処された。この時彼女は僅か19歳だった。

ジャンヌの死後もフランス軍の勢いは止まらなかった。シャルル7世はブルゴーニュ派とイングランドとの同盟を解消する事に成功し、またブルゴーニュ派と和解してフランス側に合流させる事にも成功した。1436年にはパリの解放も成し遂げ、1450年にはフォルミニーの戦いでイングランド軍に大勝を収めてノルマンディーを制圧し、1453年にはカスティヨンの戦いでイングランド軍を破りアキテーヌ地方も制圧。イングランドは大陸から全面撤退し、これにて百年戦争はフランス王国の完勝で終結した。

シャルル7世はこの功績から勝利王とあだ名され、またこの戦争を通して国王の権力はより一層強化され、後の絶対王政の下地ともなった。

イタリア戦争

一方、イタリアではナポリ王国の国王フェルディナンド1世は教会との対立を深めており、当時の教皇インノケンティウス8世は彼を破門した。インノケンティウス8世はフェルディナンド1世を失脚させるべくナポリ王家と縁のあったフランスの温厚王シャルル8世にナポリ王国の継承権を与えた。しかし1492年に教皇とナポリ王家との間で和平が成立し破門が撤回されるとこの継承権も立ち消えになり、これに不満を抱いたシャルル8世は以降も引き続きナポリ王位の継承権を主張し続ける。

1494年、シャルル8世はインノケンティウス8世が与えた継承権を根拠に遂にイタリアへ侵攻する。百年戦争を経て王権が強まったフランスは大量の兵を招集する事に成功し、総勢およそ2万人という当時としては類を見ない大軍を以てイタリアへ侵攻した。フランス軍は有利に戦いを進めるも、この侵略に対してイタリア諸国は反仏同盟を結成して抵抗し、結果的にはフランス軍の大敗で終わった。シャルル8世は本国へ逃げ帰り、事故で急死した。

シャルル8世の嫡子はいずれも夭折している為、ヴァロワ本家が断絶した。その後はヴァロワ本家の傍系であるヴァロワ=オルレアン家ルイ12世が後を継いだ。ルイ12世もまたナポリ王家の縁者であった事を根拠に継承権を主張しており、1499年に再度イタリアへと侵攻した。しかしこれも失敗に終わり、ルイ12世も1515年に死去する。彼には嫡男がいなかった為にヴァロワ本家の別の傍系であるヴァロワ=アングレーム家フランソワ1世がルイ12世の後を継いだ。彼は即位した同年の1515年に再びイタリアに侵攻するが、この時は成功に終わり、僅か1年でミラノ公国を征服した。またこの年にレオナルド・ダ・ヴィンチなど多くのイタリアの芸術家がフランソワ1世に招かれてフランスへ渡った事もあって、同国にルネサンス文化が持ち込まれ栄える事となった。

1519年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が崩御すると、かねてより帝位を狙っていたフランソワ1世は皇帝選挙において後継者に立候補した。しかし選挙ではマクシミリアン1世の孫であったカール5世(スペイン王カルロス1世)に敗れ、これ以降彼はカール5世と皇帝位を巡り生涯をかけて争う事になる。1521年から1544年にかけてイタリアを巡って現地で何度も戦争を行い、また対神聖ローマ同盟として教皇やイタリア諸国、イングランドなどと共にコニャック同盟を結成した。イスラム教国であるオスマン帝国のスレイマン1世とまで結び付いてカール5世に対抗しようとするもいずれも失敗し、1547年にフランソワ1世は志半ば崩御した。

イタリアへの侵攻はその後も度々行われたが、フランソワ1世の嫡子であるアンリ2世の治世に当たる1559年にフランスはイタリアへの権利を放棄しており、これにてイタリア戦争は終結した。

宗教改革と宗教戦争

16世紀の神聖ローマ帝国はマルティン・ルターに端を発する宗教改革の波に揺るがされていた。カール5世は国内ではプロテスタント(ルター派)の諸侯が結成したシュマルカルデン同盟と対立を深めていた。宗教改革の波はフランス国内にも波及し、当時フランソワ1世はルネサンス的な気風があった事もあってプロテスタントには寛容であった。フランス国内に浸透した改革運動の中ではジャン・カルヴァンが登場して教会の腐敗を厳しく批判した。

しかしフランソワ1世自身はカトリックであり、更にはカトリックの教義等を非難する文書が王国各地に加えて自身の寝室までにも貼られていた為(檄文事件)、彼はプロテスタントを王国に対する脅威と見なして弾圧した。アンリ2世に王が代替わりした後もプロテスタントは「ユグノー」と呼ばれ迫害を受け、やがて両者は対立を深めていく事となる。国家による弾圧にも関わらずカルヴァン派は民衆や貴族の間にも広がって勢力を増していった。

1562年、カトリック側のギーズ公フランソワによるプロテスタントの虐殺事件が発生した(ヴァシーの虐殺)。これを機にプロテスタント側の諸侯と国王との間で内戦が勃発(ユグノー戦争)。宗教対立以外にも貴族間の派閥抗争やイングランドとスペインとの間の対立も絡み、何度か和平が結ばれたものの最終的に1598年まで8回に渡って続いた泥沼の内戦であり、この混乱の最中にアンリ3世が暗殺された事で1589年にヴァロワ朝が断絶した。


ブルボン朝

ヴァロワ朝が断絶した事を受けてカペー家の支流の一つであったブルボン家アンリ4世がフランス王に即位した事でブルボン朝が成立した。アンリ4世は元々はプロテスタント側であったがカトリック側との対立を収める為に自身はカトリックに改宗し、またプロテスタントに一定の制限付きで信仰の自由を認めるナントの勅令を発してユグノー戦争を終結させた。これ以降度々戦争があったもののフランスの王権は安定し、また17世紀半ば頃から絶対王政が確立する事となる。

アンリ4世はおよそ30年にも渡って続いたユグノー戦争で疲弊したフランス国内の回復に努め、公共事業や文化振興を行った。また海外進出も視野に入れており、探検家のサミュエル・ド・シャンプラン北アメリカ大陸に派遣している。これは後のフランス植民地の嚆矢となった。

1610年にアンリ4世が暗殺されると、彼の嫡子であるルイ13世が即位した。ルイ13世は王権の更なる強化に努め、プロテスタントとカトリックとの間で勃発した三十年戦争(1618~1648)ではカトリック教国であるにも関わらず宗教的対立よりも自国の国益を優先してプロテスタント側を支持した。

1643年にルイ13世は死去し、彼の子であった太陽王ルイ14世が即位した。彼は僅か4歳で即位したものの、1661年に彼を補佐していた宰相のジュール・マザランが死去すると親政を開始した。彼の治世でフランス王国は絶頂期を迎え、「朕は国家なり」というルイ14世自身の言葉に代表される絶対王政が確立された。ルイ14世は壮麗なバロック様式のヴェルサイユ宮殿を築き、また対外膨張政策に明け暮れ、ネーデルラント継承戦争スペイン継承戦争大同盟戦争に介入するなど積極的な外交政策を行った。しかし晩年には度重なる戦費や宮殿の建設・運営コストの負担が民衆に重くのしかかり、以降フランス王国は慢性的な財政難に陥った。

やがてブルボン朝最後の王であるルイ16世の統治の時代が来た。18世紀も後半のこの時代になると啓蒙思想が盛んに唱えられるようになり、またそれに合わせてブルジョワ階級や自由主義・資本主義も台頭しつつあった。ルイ16世は先々代王ルイ14世以来の慢性的な財政難に即位直後から悩まされていたにも関わらず、1776年のアメリカ独立戦争に介入してアメリカ合衆国(13植民地)側に多額の資金援助をしたものの碌な見返りもなかった事は、王国の財政に大打撃を与えた。ルイ16世は様々な改革を行ったもののいずれも芳しい結果は得られなかった。


フランス革命

長引く財政難や重税、そして世界規模の寒冷化による全国的な食糧難を背景に民衆の不満が高まっていった。ルイ16世は財政難の打開策として貴族などの特権階級にも課税しようとしたが反発に遭い失敗し、招集した三部会では第三身分(平民)が大きく勢力を増して結果的にバスティーユ牢獄襲撃事件を契機として1789年にフランス革命が始まった。

ルイ16世は革命勢力によりテュイルリー宮殿に軟禁され、1792年の王政廃止に伴い廃位されてブルボン朝が倒れた。

そして1793年1月21日午前10時22分、ルイ16世はギロチンを用いて斬首刑に処された。この時を以てユーグ・カペー以来806年間(西フランク王国のシャルル2世も含めれば950年間、後述の復古ブルボン朝・オルレアン朝まで含めれば984年間)続いたフランス王国は滅亡した。


なお、ルイ16世は死刑の直前にこのような言葉を遺している。

「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちる事のないように神に祈りたい」

フランスへの思いが込められた言葉だったが、彼の言葉に涙を流す者は誰一人としていなかった。


また後に王党派はルイ16世と王妃マリー・アントワネットの子であった王太子ルイ=シャルルを国王ルイ17世とすると宣言したが、革命の最中パリのタンプル塔に幽閉されていたルイ=シャルルは正式な戴冠式ができず、また国王となった事を知る由もなかった為に名目上の物に留まった。

ルイ=シャルルはその後苛烈な虐待の末に1795年に死去した。


王政復古(復古ブルボン朝)

フランス王国が革命で倒れた後は共和政が敷かれ(第一共和政)、その後ナポレオン・ボナパルトが台頭・皇帝に即位してフランス帝国が成立する(第一帝政)。これはを中心とする対仏大同盟の結成を招き、続いてナポレオン戦争が勃発する。

フランス帝国の敗戦後はルイ16世の弟であるルイ18世の元で王政が再び行われた。かつてのような絶対王政はもはや行われなくなったが、国民主権の否定や立法権・行政権・司法権は国王に属するなど、一部の名残はあった。1824年にルイ18世が没すると、彼の弟であるシャルル10世が王位に就いた。彼はかつての絶対王政の復活を目指して選挙権を大幅に制限するなどのより反動的な政治を行った為に民衆の不満を買い、やがて1830年に七月革命で復古ブルボン朝は倒れた。


七月王政(オルレアン朝)

反動的な政治に不満を持った民衆の蜂起によりシャルル10世は退位に追い込まれ、代わってブルボン家の流れを汲むブルボン=オルレアン家ルイ・フィリップが国王に即位し(称号は「フランス国王〈Roi de France〉」ではなく 「フランス人の王〈Roi des Français〉」 )、こうしてオルレアン朝は成立した。ルイ・フィリップは後のフランス帝国主義政策に先鞭を付ける外交政策を行い、復古ブルボン朝から続くナイジェリア出兵を継続し、1838年にはメキシコへ出兵して勝利している(菓子戦争)。内政面でも革命の結果である自由主義と資本主義が発達したものの制限選挙は依然として残り、労働者階級による運動は弾圧された。民衆の不満は1846年の恐慌も相まって高まり、1848年に二月革命が発生した。この革命でオルレアン朝も倒れて第二共和政が成立するが、以降フランスに王政が復活する事はなくなり、フランス王国は完全に消滅した。


現在

王族の一部は身分を失っても現在まで存続しており、またスペインでは現在でもブルボン家が王族となっている(スペイン=ブルボン朝)。


歴代フランス国王一覧

※括弧内は在位期間・存続期間を表す。またヴァロワ朝は傍系も含む。

カロリング朝(843~987)
禿頭王シャルル2世(843~877)→吃音王ルイ2世(877~879)→ルイ3世(879~882)/カルロマン2世(879~884)→肥満王カール3世(885~888)→ウード(888~893)→ウード(893~898)/単純王シャルル3世(893~898)→単純王シャルル3世(898~922)→ロベール1世(922~923)→ラウール(923~936)→渡海王ルイ4世(936~954)→ロテール(954~986)→怠惰王ルイ5世(986~987)
カペー朝(987~1328)
ユーグ・カペー(987~996)→敬虔王ロベール2世(996~1031)→アンリ1世(1031~1060)→フィリップ1世(1060~1108)→肥満王ルイ6世(1108~1137)→若年王ルイ7世(1137~1180)→尊厳王フィリップ2世(1180~1223)→獅子王ルイ8世(1223~1226)→聖王ルイ9世(1226~1270)→豪胆王フィリップ3世(1270~1285)→端麗王フィリップ4世(1285~1314)→喧嘩王ルイ10世(1314~1316)→遺児王ジャン1世(1316)→長身王フィリップ5世(1316~1322)→端麗王シャルル4世(1322~1328)
ヴァロワ朝(1328~1589)
幸運王フィリップ6世(1328~1350)→善良王ジャン2世(1350~1368)→賢明王シャルル5世(1364~1380)→狂気王シャルル6世(1380~1422)→勝利王シャルル7世(1422~1461)→慎重王ルイ11世(1461~1483)→温厚王シャルル8世(1483~1498)→ルイ12世(1498~1515)→フランソワ1世(1515~1547)→アンリ2世(1547~1559)→フランソワ2世(1559~1560)→シャルル9世(1560~1574)→アンリ3世(1574~1589)
ブルボン朝(1589~1792)
アンリ4世(1589~1610)→ルイ13世(1610~1643)→ルイ14世(1643~1715)→ルイ15世(1715~1774)→ルイ16世(1774~1792)→ルイ17世(名目上)(1793~1795)
復古ブルボン朝(1814~1830)
ルイ18世(1814~1824)→シャルル10世(1824~1830)
オルレアン朝(1830~1848)
ルイ・フィリップ(1830~1848)

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