由来は、家康が大御所時代を過ごした駿府と、高虎の領地である伊勢・伊賀から。
豊臣秀長の家臣であった高虎だったが、秀吉の死去直前から徳川家康に接近する。一説には、秀長の後を継いだ養嗣子・秀保(関白秀次の実弟)が秀吉によって暗殺されたからとも言われるが、真実は不明。
家康の晩年には外様大名でありながら唯一病床の枕元に侍ることを許され、家康に「死んだ後は天海と高虎と三人で眠りたい」とまで言わしめた。
他にも、
「藤堂家は末代までも伊勢・伊賀から動かしてはならぬ」
「国に大事があるときは高虎を一番手とせよ」
などの言葉も残っている。
現在、日光東照宮には南光坊天海とともに高虎の像が安置されている。
また、日光東照宮の造営、二代将軍秀忠の娘・和子姫の入内の露払い役など、家康の死後も変わらぬ忠誠を幕府に示し、江戸幕府が長期政権となる礎のひとつとなった。