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毛利秀元の編集履歴

2014-01-25 11:38:34 バージョン

毛利秀元

もうりひでもと

戦国時代・安土桃山時代の武将。江戸時代の大名。

概要


天正7年(1579年)11月7日、毛利元就四男・穂井田元清の長男として生まれる。

子供のいなかった従兄・毛利輝元の養子となるが、輝元に松寿丸(後の秀就)が生まれると家督相続を固辞した。


文禄・慶長の役では伯父の小早川隆景、従兄の吉川広家らとともに活躍。

関ヶ原の戦いでは秀元自身には戦意があったものの、吉川広家に押し留められて戦うことはなかった。(このとき出陣しないことを責められて苦し紛れに「弁当を食べさせている」と言ったことから「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた)大坂城に帰還後は立花宗茂らとともに徹底抗戦を訴えたが、受け入れられなかった。


江戸時代には長府藩主として西の守りを任され、晩年は江戸に住み、徳川家光の御伽衆となる。


逸話

  • 腕力が強く、碁盤の上に人を立たせてそれを両手で持ち上げることができた。
  • 小早川隆景は秀元を器量に優れ、父元就に似ていると述べていた。
  • 江戸城に出仕した際弁当に鮭の切り身を入れていた所、そのような「高価で珍しい魚」を羨ましがった諸大名が秀元に群がり、ほとんどを奪われてしまったという逸話がある。

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