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ラダ・ビノード・パールの編集履歴

2014-09-21 22:28:17 バージョン

ラダ・ビノード・パール

らだびのーどぱーる

インドの法学者で、裁判官、大学教授。

概要

第二次世界大戦終結後に行われた、東京裁判(極東国際軍事裁判)にて、判事を行った。『パール判事・博士』ともよく呼ばれる。しかるべき東京裁判では日本の全面無罪を訴え続け、裁判終了後も戦前・戦中の歴史について研究し、何度も来日し日本人に対し日本無罪を訴え続けたことで知られており、一部の保守論客からも彼の意見が引用され、太平洋戦争の刻的を正当化する論拠としても使用されている。


なお、しばしば誤解されがちではあるが、パール判事自身は、あくまで結論ありきで行う東京裁判のあり方を国際法的見解で批判し、平和に対する罪が事後法的なものに過ぎない限りは、国際法的に日本が有罪である確実な根拠が見いだせない問題があるという主張の下で、日本に無罪を言い渡したのであり、決して、パール判事自身の個人的感情論に基づいて判決したわけではない、パール判事本人も、反白人説をキッパリと否定している(下の作品を参照)また、日本の戦争犯罪に関しても、戦争犯罪に関する証言者の話の矛盾や、事実確認の難しい部分があることを指摘し、パール判事自身は全面的に無罪を言い渡している。もちろん、これは日本を擁護することが目的ではなく、あくまで裁判官としての立場に基づき、国際司法上の問題をパール判事なりに指摘しただけである。


また、このパール判事の見解を日本とインドの深い絆を表すエピソードだと主張する者もいるが、彼の意見書は、インド政府の考えと必ずしも一致していたわけではなく、特に初代首相であるネルーとは裁判の頃より対立していた。


靖国神社境内の遊就館の脇や、霊山護国神社内に、パール判事の顕彰碑がある。


経歴

1886年、インド・ベンガル地方にてベンガル系の一族の下に生まれる。

1941年カルタッタ高等裁判所判事、1944年カルタッタ大学総長、1946年インド代表として東京裁判判事に就任。東京裁判終了後、国連国際法委員会委員、同委員会委員長などを歴任。

1967年、自宅で死去。享年82歳。


エピソード

  • 東京裁判時、裁判官席に着く前に必ず被告席のいわゆる戦犯の方々に向かい合掌し、法廷の人々はその敬虔な姿に少なからず感銘を覚えたという。
  • 『パール判事の日本無罪論』(小学館文庫)の著者である田中正明氏は、パール判事と深い交流があり、特に田中氏が自身の意見書の日本語訳を出版すると聞いたときには、そのタイトルや田中氏の主張に対して不服な部分もあったようだが、彼のことを「マサアキチャン(正明ちゃん)」と呼び、「お前は永久に私の子供だ」とまで言ったことのあるほど非常に親密な関係だったらしい(『日本無罪論』の田中氏本人のあとがきより)。
  • 近年に入り、中島岳志氏や中里成章氏など、田中氏の学説に反論する内容の論文も発表されている。しかし、その中でも、中島氏の主張内容と検証方法をめぐり、言論界で大きな論争を巻き起こしている。

名言

来日時の講演での言葉

「私は1928年から45年までの18年間の歴史を2年8ヵ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して充分研究していただきたい。日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられねばならない。」


関連項目

インド 第二次世界大戦 大東亜戦争

歴史 日本無罪論

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