ヒクソン・グレイシー
ひくそんぐれいしー
ブラジル・リオデジャネイロ出身。1958年11月21日生まれ。
総合格闘技の第一線において無敗のまま引退した、数少ない人物。
400勝無敗という触れ込みで売り出されたが、これは佐山聡が彼を日本に紹介する際に「柔術の試合やストリートファイトを含め、それくらいは試合をした」というヒクソンの発言を誇張して広めたものだる。
2歳の頃から父エリオ・グレイシーよりブラジリアン柔術の手ほどきを受ける。ヨガをや東洋思想を取り入れた独特のトレーニングをしていたことでも有名。
18歳で父からブラジリアン柔術黒帯を授与され、20歳でヴァーリ・トゥード(総合格闘技の前身的競技)の試合に当時ブラジルのヴァーリ・トゥード界で無敵を誇ったレイ・ズールに勝ち、ブラジルで名声を得る。
後年には、正式な試合での対戦を望むルタ・リーヴリのウゴ・デュアルチに、ヒクソンはビーチで会ったデュアルチの頬を張って喧嘩を仕掛けた。デュアルチは喧嘩の最中にヒクソンの門下生に蹴りを入れられたのが敗因だとして、ヒクソンの道場を訪れて再戦を要求するも、ヒクソンは挑戦を受け返り討ちにした。
その後、ヒクソンは活動の拠点をアメリカに移していった。
1993年、UFCが開催されることになり、ヒクソンは一族を代表して出場することを強く希望するが実兄のホリオンによって却下される。結局、弟ホイスのセコンド役をまわされる。そのUFCにおいて優勝したホイス・グレイシーが「兄ヒクソンは私の十倍強い」と発言した事で注目が集まった。
この起用の裏には、当時すでにホリオンの支配から離れたヒクソンよりも、よりファイターとして純粋なホイスの方が何かと都合がよいというホリオンの政治的計算が働いていたとされる。
日本でもヒクソンへの注目が高まり、PRIDEはじめ日本のリングでも高田延彦などと対戦し、圧倒的な強さを見せた。2000年の船木誠勝戦を最後に現役を引退している。
2017年7月、長兄のホリオン・グレイシーより赤帯を授与される。しかし、授与以降もそれまで巻いていた赤黒帯を継続して巻いている。このことについてヒクソンは「授与自体はありがたく感じるが、赤帯は赤帯を授与できる人間が話し合って認められるべきであって、個人が決定してよいものではない」と理由を述べている
- 400勝無敗について本人は柔術を始めたばかりの頃や、サンボの試合で負けたことを隠さず認めている。
- ドキュメンタリー「君は木村政彦を知っているか?」にて、父エリオを倒した木村政彦の、力道山との戦いに大きなショックを受け、「キムラのあんな姿は見たくなかった」とコメントしている。
- 落ち着いた求道者然としたイメージで知られるが、これは前妻のキムによるプロデュースによるもので、実際のヒクソンは平凡で饒舌な人物として知られる。血気盛んな若いころはブラジル格闘技界でも有数の喧嘩番長的存在である。前述のデュアルチ戦でも、マウントを取って「一番強いのは誰だ、言ってみろ」と罵りながら「ヒクソン様です」と自ら言うまで殴り続ける手洗い手段を用いていたりする。
- 自伝において自分の生い立ちや、下の兄弟たちとの関係、アメリカに渡ったころに受けたカルチャーショックを生々しく語っている。特に母を巡る自分の生い立ちについては思うところがあり、父のエリオや叔父のカーロスを尊敬しつつも、一部分においてはどうしても納得できないことがある模様。