概要
1523年(大永3年)に毛利元就と正室・妙玖との間に長男として生まれる。幼名は少輔太郎。
最初は元就が従属していた周防の戦国大名・大内義隆のもとに人質として送られる。そして、
元服し、義隆から一字を賜り「隆元」と名乗ることが許され、大内氏に仕える武将の一人に加えられた。
また、その人質生活中に主家の影響から優れた知識と教養を身につけていくが、反面必要以上に覇気のない性格となってしまった。
天文15年(1546年)、元就の隠居表明により、家督を相続して第53代毛利家当主となる。しかし、実権は依然元就が握り続けた。
そして、この頃からその性格から将来を不安視して元就と共に老臣・志道広良によって訓育されることなる。
天文20年(1551年)、義隆が重臣の陶隆房(陶晴賢)により自害に追い込まれると、陶晴賢との交戦を唱えた。はじめは交戦に対して慎重であった元就であったが、結局交戦する運びとなった。
弘治元年(1555年)、父と共に旧友の陶晴賢を厳島の戦いで滅ぼした。
その後、北方の尼子氏に応戦する元就に対して、南方の大友氏に弟・隆景の支援を受けつつ応戦し、撃退することに成功した。幕府の仲介後、北方の尼子氏討伐に移行していった。
しかし、その途上の永禄6年(1563年)、安芸の佐々部で急死した。享年41。
原因は食中毒とも毒殺とも言われ、正確なものはわかっていない。
この訃報を知った元就の悲嘆は尋常なものではなかったとされる。
人物評
現存する書物などから推測されるに、温厚で篤実な人物であったとされる。人質生活で培った優れた教養と知識を有しており、また、武将としても父と共に厳島合戦などに参加したり、北九州の雄・大友氏相手に激しい攻防を繰り広げるなど優れた素質を持っていた。
ただ、一般的な認知度としては地味の一言に尽きてしまう。謀神と称され戦国時代最高峰の策略家である父・元就をはじめとし、
次男で生涯不敗を誇る猛将・元春に、三男で毛利水軍を統率し豊臣秀吉から一目置かれた智将・隆景。
そのような周りを見渡せばチートだらけの一家の中、隆元は確固たるアピール要素がこれと言ってなかった。
事実、本人も積極的な自己アピールをしないばかりか自己卑下が強い一面も持っていた。よく「自分は生来、無才覚無器量である」と自嘲的に記していたり、他の兄弟から除け者にされているのではないかと被害妄想的なものも持ち合わせていた。
そのような性格から父・元就をして「優柔不断で武将としての資質に欠けている」と評しており、実権移譲を行わなかった理由の一つとされている。
そのような彼の真価が明るみになったのは、皮肉にも彼の死後である。それは彼の死後、毛利家の財政が傾いてしまったのである。つまり、彼の働きにより毛利家の財政は回っており、ひいては元就をはじめとする毛利家の邁進は、彼なしではあり得なかったのである。
またその他にも元就の重臣たちと隆元直属の官吏達との間で意見対立が生じたことがあった。そこから自分独自の派閥を組織できるだけの政治力を持っていたことがわかる。
以上のように、彼の優れた財務・内政能力は他の優秀な家族にも十二分に対抗できる能力。
彼や彼の家族がこの事実を理解できていたならば、もう少し違う形で生前評価されたかもしれず、歴史ファンの中には、彼が早死にしなければその後の毛利家の舵取りは変わっていたかもしれないと考えるファンも少なくはない。
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