概要
昭和28年(1953年)の日本の田舎を舞台とした話。
母親の療養のため田舎へと引っ越してきた草壁一家の草壁サツキと草壁メイと、日本に古くから住んでいた不思議な生き物トトロとの交流を描いた作品である。
昭和63年(1988年)4月16日に劇場公開されたが、その時の同時上映が「火垂るの墓」であり、トトロを見て良い気分になった観客が続けて「火垂るの墓」を見たばっかりに、その救いようのない結末に鬱になってしまった観客が少なからずいたようだ。ただし当時は放映が終わってもそのまま席に残って次の回を観ることができた劇場が多かった(完全入替制が主流になったのは1990年代。それまでは映画が始まって何十分たっても入場できた。見逃したところは次の回で見ればよかった)ため、事情を知っている観客は、途中から劇場に入って「火垂るの墓」⇒「となりのトトロ」の順番で観ていた。多くの劇場では「となりのトトロ」⇒「火垂るの墓」の順番で上映されたが、一部の劇場では逆の上映順のところもあったそうである。
興行成績は「風の谷のナウシカ」と比べると低かったものの、各所からの評価は公開当時から高く、発売されたビデオやDVDは軒並み高セールスを記録。TV放映でも毎回高い視聴率を記録している。
ちなみに舞台となった松郷集落は宮崎監督が過去に住んでいた町等を色々混ざり合わせており、明確な設定付けはされていない。劇中に登場している地名は埼玉県所沢市をモチーフにしている(先述の松郷は実在し、七国山は八国山を、前沢は所沢をモチーフとした地名)が、本作の舞台が狭山丘陵である、というわけではない。
また、「トトロ」の名前は「所沢のとなりのお化け」に由来している。
都市伝説
ネット上では本編に関する様々な憶測や考察がされている。
詳細は検索すれば該当サイトらがヒットするのでそちらを参照していただきたいが、
それらは後に公式から否定されている。
キャラクター
タグのついていないキャラクターについては簡単な説明を付した。サツキとメイについては個々のページで確認されたし。
草壁タツオ(お父さん):大学で考古学を研究している。靖子の療養のために彼の案で松郷の塚森横の家に引っ越した。娘の言うことは否定せず、メイが「トトロを見た」と言ったときも「メイは運がよかったんだよ」とメイの発言を肯定的に受け止めた。彼自身が「妖怪」が好きで、曰く「お化け屋敷に住むのが子供の頃からの夢だったんだ……アードー!!」らしい。
草壁靖子(お母さん):結核で七国山病院で療養しているサツキとメイの母。何度も退院延期を繰り返し、その結果メイが靖子にトウモロコシを届けて元気になってもらおうと行き、迷子になってしまったがエンディングではようやく退院し、一緒にお風呂に入る様子もかかれていた。ちなみに結核は昭和30年当時、既に治療法が確立していたため、所謂「母は死んでしまって云々」の都市伝説は否定される。
カンタのおばあちゃん:草壁家の新居(?)を管理している隣家、大垣家のおばあちゃん。まっくろくろすけのことをサツキたちにススワタリだと教えてくれたり、メイの面倒を見てあげたり、畑の野菜を一緒に収穫したりとサツキたちにとってもおばあちゃんの様な存在である。その為、メイのサンダルを神池で見つけたときは誰よりも心配し、念仏まで唱えていた。度々聞かれる「めーいちゃーん!」の台詞は有名だ。
大垣勘太(カンタ):隣家、大垣家の息子。物語冒頭からサツキのことを気にかけ、初めはつっけんどんに振舞うも徐々に優しさも垣間見えるようになった。初めはサツキに「男のコきらい!」とまで言われたが、最後では自転車で七国山に行こうとするなど地の性格の良さが際立った。最後、サツキと会話する場面はセリフが無いが、絵コンテによると「自転車がパンクしちゃったからいけなかったんだ」といったことを喋っていたようだ。
みち子(みっちゃん):サツキが学校で真っ先にできた友達。草壁家の門から居間まで通るほどの大声で「さーーーーーつきちゃーーーーーん!!」と叫んでいた。学校ではサツキとはとなり同士で、思いがけないメイと言う来客を楽しんでいたようす。また、男子と口論する、木登りするなどエンディングではなかなか活動的な一面もみられる。
余談
東京都三鷹市にあるジブリ美術館内の映画館「土星座」では入場一回に付き一度鑑賞できるミニシアターを上映している。演目は月に一度変更されるが、トトロの続編にあたる「メイとこねこバス」は最も人気の高い演目である。
幻の“となりのトトロ”
前述の通り、『となりのトトロ』と『火垂るの墓』は、史上初の同時上映アニメーション作品である。この二作品の制作の舞台裏で、宮崎駿と高畑勲両監督による、あるアニメーターの争奪戦が行われていた。
原画マン時代から彼らの携わる作品に大きな貢献を残した近藤喜文の奪い合いである。
(※事件の詳しい顛末は近藤喜文の記事にて。)
結果的に、近藤は『となりのトトロ』への参加はしなかったものの、近藤が携わってたならば、全く異なる『となりのトトロ』になっていたと言われている。
宮崎駿によれば、
「普通、四才ぐらいの子どもであれば、歩くときや走るときに前のめりか後ろのめりに動く。僕がこのアニメーションを描こうとすると、どうしても子どもが地面に対して垂直に動いてしまう、いわゆる漫画的な表現になってしまうが、近藤喜文にならそれができる」
ということだそうである。
鈴木敏夫は、近藤喜文は日本のアニメ界が生んだ最高のアニメーターであり、彼のアニメーターとしての実力はもしかすると宮崎駿を上回っていたのではないかと彼を称している。しかし、生まれつき体の弱かった近藤喜文は無理がたたった為か、もののけ姫公開後、47歳の若さで亡くなった。
宮崎駿自身、近藤のアニメーターとしての実力に関しては、文句のつけどころのないやつだったと後年語っている。