概要
現在、海上自衛隊固定翼部隊の主力であり、同様に世界中でも海に睨みを利かせる哨戒機。旅客機から発展していることもあり、広い機内や優れた飛行性能により長く主力を務めている。ただ役割の地味さから後継には恵まれず、初飛行から50年を過ぎた現在でも完全に役割を継げる機は川崎P-1くらいのもの。
生誕までの物語
海神(ネプチューン)の後継を
本機はL-188旅客機をもとに開発された哨戒機で、旧式化したP-2(P2V)「ネプチューン」にかわって配備された。
原型が新しくなったこともあり、P-2の不満点はあらかた解決されている。
・旅客機ベースによる居住性の向上・機内容積の拡大
・それによる分析要員の拡充
・飛行性能の向上
なかでもエンジンがレシプロエンジンからターボプロップエンジンに変わったことは大きい。この違いは5000km(P-2J)だった航続距離が6600kmに増え、さらに巡航速度では360km/hが607km/hへと大幅向上を遂げている。おまけにエンジン基数も2基から4基となり、P-2では不可能だった巡航中のエンジン停止ができるようになった。ちなみにこのエンジンはアリソンT56系統で、これはC-130にも採用されているもの。
L-188『エレクトラ』
原型機が登場した1950年初頭はまだまだジェット機も発展途上で、たとえばDH.106「コメット」が事故を連続させた事などから、安全面・技術面からジェット機を不安視する意見も少なくなかった。
だが、レシプロ旅客機はすでに発展の余地はなく、それとてジェット旅客機はまだまだ不安がある。そこでロッキード社はC-130で培った技術を用いたターボプロップ旅客機を開発し、ジェット旅客機がより安全になるまでの「つなぎ」にしようと考えた。こうして1954年、L-188「エレクトラ」の開発は始まった。初飛行は1957年で、これなら上手く旅客機のシェアを奪えるだろうと見込まれた。
だが1958年、ボーイングが先鞭をつけて開発したジェット旅客機ボーイング707がニューヨーク~パリ間路線に就航。この旅客機はそれまでよりも乗客を多く運べ、さらに2倍も速く飛行できた。
この707はその後も改良が続けられ、さらに低燃費化し、輸送力も拡大されていった。
たまらないのはロッキードである。何せ、今後10年ほどはジェット旅客機は低迷するだろうと当て込んでL-188を開発していたのだから。初飛行から間もなかったが、L-188は本格的に売り込む前にさっそく時代遅れになりはじめていた。
それでもようやく買い手が見つかり、関係者各位の努力によりL-188はやっとこさ商用飛行にこぎつける事になった。が、1959年~1960年にかけて謎の空中分解を連発し、合計97名の乗員・乗客が命を落とす事となってしまう。原因究明の結果、大型プロペラの後流が主翼の構造材に想定以上の振動を起こし、それが空中分解の原因になったと結論付けられた。
ロッキードはまたも困難にたたされた。実はボーイング707の進捗を横目でみながら開発していたことがアダになってしまった。開発に追われる中で仔細な強度計算を怠ってしまったのである。
原因究明と対策の結果、エンジンと主翼の接続方式を変更し、また88km/h(49kt)ほど速度制限をつけることで再発は防げることとされた。だが、そのころにはジェット旅客機は広く普及しており、また前世代のレシプロ旅客機以下になってしまった速度では誰からも注目されることはなく、せいぜいが貨物専用輸送機として使われるに留まるのだった。
『オライオン』への転身
旅客機としては失敗作となってしまったL-188だが、ターボプロップエンジンはただでさえ燃費がよく、また速度も遅く設定され直されたことが、皮肉にもアメリカ海軍の次期対潜哨戒機への道を開いた。
それまで運用されていたP2V<P-2は時代遅れになって久しく、また対潜水艦技術も向上し、より多様な探知・分析機器も必要とされた。探知した目標が逃げないように速度も求められ、またより長く飛行することも必要だった。さらに任務は長時間に及ぶので、乗員の疲労を抑えるためにも居住性は必須となった。
当然ながらこれらを旧式機に適用することはできない。より大きく、より速い新型機が必要だった。ロッキード社は1957年8月にこうした要求仕様が発表されるとすぐさまL-188を改造した哨戒機を提案し、1958年4月には採用を勝ち取った。
だったのだが、例の主翼がちぎれる事案により開発は遅れ、アメリカ海軍が最初の機を受領したのは1962年になってしまった。ただ評判は上記のとおりであり、1965年にはエンジンを換装したP-3Bが登場している。1969年には対潜捜索機材を一新したP-3Cが登場し、この型は数度に及ぶ更新により最新を維持し続けることとなる。
日本海とソ連潜水艦
日本でも1968年からP2Vの後継機選定に着手し、一度は国産哨戒機の採用が見込まれた。だが国内技術(当時)にまだ不安は残っていたし、なにより新鋭機(P-3)を推す意見は大きく、1972年10月にはP-3採用が田中角栄政権により突如決定された。
だがロッキード事件のアオリで一度は白紙に戻され、再び採用が決定されるころには1977年になっていた。だがその後は順調で、1981年には最初の機が納入され、1982年からは川崎重工での生産も始まった。その後1997年までに98機がライセンス生産され、購入・ノックダウン生産分も合わせて110機が海上自衛隊にて運用されている。無論、対潜機器は随時最新のものに更新されており、国産で置き換えられた機器も多いので不明なことも多いが、それでも当代随一の能力である事には疑いもないことだろう。
最近では一部が長期保管状態にあると言われ、また飛行時間が累積したことから退役も始まりつつある。それでも川崎P-1との入れ替えが完了するまでは耐えられるはずで、まだもう少しだけ現役生活を続けることになる。
「ベルクロ・オライオン」
このように搭載力に優れ、長時間飛行も得意なので試験機や特殊任務機に改造されることも多い。
アメリカ税関や沿岸警備隊に向けた海上監視機や、訓練用電子妨害機、または新機材の各種テスト用試験機などである。