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工藤俊作(海軍軍人)の編集履歴

2015-12-15 23:06:49 バージョン

工藤俊作(海軍軍人)

くどうしゅんさくかいぐんぐんじん

工藤俊作(海軍軍人)は駆逐艦「雷」艦長時、スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物

時は大東亜戦争開戦の翌年の昭和17年3月2日

大東亜戦争中、ジャワ海の制海権争奪に敗れた米英豪連合軍艦隊の残存艦艇は、日本艦隊の隙をついて同海域からの脱出をはかった。午後2時頃、2隻の英海軍艦艇は、インド洋への脱出を試みてジャワ海北西海域において日本艦隊に捕捉され相次いで撃沈された。両艦の乗員合計約422人は脱出し漂流を開始するが、約20時間近く経過した翌3日、午前10時頃には生存の限界に達していた。


そこに一隻の駆逐艦」の艦長であった工藤俊作(海軍軍人)がイギリス軍艦の漂流乗組員422名全員を「敵兵を救助せよ」と命じ実行させた


しかしこの海面は敵潜水艦の跳梁も甚だしく艦を停止させること自体、自殺行為に等しかった。艦の乗組員は『艦長はいったい何を考えているのだ!戦争中だぞ!』と批判の声が出た。そこで1番砲塔だけ残し、水兵員、溺者救助用意させ、艦長は間もなく彼らの体力が限界に達している事に気づく。そこで警戒要員も救助活動に投入し、マストには『救難活動中』を示す国際信号旗を掲げた。


英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登れないばかりか、竹ざおをおろして一たんこれにしがみ付かせ、艦載ボートで救助しようとしたが、力尽きて海底に次々と沈んで行ったのだ。ここで下士官数名が艦長の意を呈し、救助のためついに海に飛び込んだ。そしてこの気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げたのである。


救助した英兵を貴重な真水で洗い、衣服まで提供して工藤艦長はこうスピーチした。

貴官達は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。

救助された英兵達は大感激をした。

そもそも英国海軍の規定には、危険海域における溺者救助活動では、『たとえ友軍であっても義務ではない。』としている。

それが敵兵である自分達を、戦域での危険を顧みず救助し、衣・食を与え、敵国の病院船に引渡しまでしたのだから、英兵達の感激は当然と言えるだろう。

 

当の本人は戦後そのことを家族に語ることは無く、1979年に胃癌のため死去。享年78歳。


語らなかった理由として「雷」が1944年に沈没して多くの乗組員が犠牲になっており、その自戒の念から軍務について家族に語らなかったと思われる。


捕虜のその後

この時助けられた英軍の捕虜たちの多くは麻生鉱業(後の麻生セメント、現麻生グループ)に割り当てられた。捕虜たちはオーストラリア人やオランダ人の捕虜と共に虐待されながら働かされ、戦後に強制労働として問題になった。彼らのうちの何人かは、麻生太郎(麻生セメント元社長)が首相だった時代に麻生に謝罪を求める手紙を出している。


関連イラスト

昭和17年(1942年)8月に駆逐艦「響」艦長に就任、11月に海軍中佐に昇進したことから、艦これのキャラクター「」「」と一緒のイラストも存在する。

雷と響と工藤俊作中佐。はーい、艦長いきますよ~!

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