経歴
1901年生まれ。海軍では主に水雷畑を歩み、駆逐艦「太刀風」艦長、海軍砲術学校教官、横須賀鎮守府軍法会議判士を経て駆逐艦「雷」の艦長となり太平洋戦争を迎えた。
柔道有段者らしく堂々とした体格をした人物であったが、性格は温和で大らかであり、それもあってか兵学校時代の校長鈴木貫太郎の影響を受けて、艦長を務める艦内での鉄拳制裁を禁じ、部下はやる気があって失敗するのだからと叱る事も禁じ、部下を分け隔てなく接し、細かい事には口は出さないが、大事での決断力はある事などから部下に信頼され、艦内は和気藹々とした雰囲気だったという。
1942年2月ジャワ海の制海権争奪に敗れたアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・オーストラリア連合軍艦隊の残存艦艇は、日本艦隊の隙をついて同海域からの脱出をはかった。この際、2月27日の戦闘で駆逐艦エレクトラが、3月1日の戦闘では英重巡洋艦エクセター及び英駆逐艦エンカウンター、米駆逐艦ポープが日本艦隊に捕捉され相次いで撃沈された(スラバヤ沖海戦)。
彼らは3月1日から2日にかけて駆逐艦「江風」、「山風」、「電」、「天津風」、「雷」などに救助されたが、捕虜の扱いは各艦で大いに異なった。
3月2日、「雷」は、艦長工藤俊作の指示により、ポープ・エンカウンター両艦の乗員合計約422人を僚艦「電」と協力して救助に当たる。
彼らはオランダの病院船オプテンノール(日本側制海権下にあり、日本駆逐艦の臨検中)に収容された。
工藤は戦後そのことを含めて海軍での軍務内容は家族に語ることは無く、1979年に胃癌のため死去。享年78歳。
語らなかった理由として「雷」が1944年に沈没して多くの乗組員が犠牲になっており、その自戒の念から軍務について家族に語らなかったと思われる。
海の武士道
時は大東亜戦争の最中、昭和17年にジャワ海の制海権争奪に敗れた米英豪連合軍艦隊の残存艦艇は、日本艦隊の隙をついて同海域からの脱出をはかった。午後2時頃、英海軍重巡洋艦エクセター、駆逐艦エンカウンター、米海軍駆逐艦ポープは、インド洋への脱出を試みてジャワ海北西海域において日本艦隊に捕捉され共々相次いで撃沈された。
エクセターの乗組員は駆逐艦電により376名、駆逐艦山嵐により67名が救助されたが、他の漂流する生残った乗員合計約422人は約20時間近く経過した翌3日、午前10時頃には生存の限界に達していた。
そこに一隻の駆逐艦「雷」の艦長であった工藤俊作(海軍軍人)がイギリス軍艦の漂流乗組員422名全員を「敵兵を救助せよ」と命じ実行させた
しかしこの海域は海戦に勝利したとはいえ、敵潜水艦の存在も考えられ、其の場合は艦を停止させること自体が自殺行為に等しかった。艦の乗組員の中には『艦長はいったい何を考えているのだ!戦争中だぞ!』と批判の声が出た。そこで1番砲塔だけ残し、水兵員、溺者救助用意させ、艦長は間もなく彼らの体力が限界に達している事に気づく。そこで警戒要員も救助活動に投入し、マストには『救難活動中』を示す国際信号旗を掲げた。
英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登れないばかりか、竹ざおをおろして一たんこれにしがみ付かせ、艦載ボートで救助しようとしたが、力尽きて海底に次々と沈んで行ったのだ。ここで下士官数名が艦長の意を呈し、救助のためついに海に飛び込んだ。そしてこの気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げたのである。
救助した英兵を貴重な真水で洗い、衣服まで提供して丁重に扱った工藤艦長はこうスピーチした。
『貴官達は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。』
救助された英兵達は大感激をした。
状況が許す限りにおいては、同じ海の男として船を失うなどで海を漂う者を救うのは彼等の暗黙の了解とはいえ、そもそも英国海軍の規定にも、危険海域における溺者救助活動では、『たとえ友軍であっても義務ではない。』とされているのである。
それが敵兵、しかも肌も文化も大きく違う者達ならば、どのような待遇を受けるか彼等は不安で堪らなかったであろう。それを戦域での危険を顧みず救助し、衣・食を与え、敵国の病院船に引渡しまでしたのだから、英兵達の感激は当然と言えるだろう。
戦場で気が立っていた雷の乗組員の中には捕虜の存在を嫌がって処分すべきという過激な声もあったというが、工藤艦長が耳を貸す事はなかった。
戦争が終わり長い時が流れた平成8年、助けられたイギリス海軍士官のサー・サムエル・フォール中尉は『マイ・ラッキー・ライフ』を出版し、『この本を私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を救ってくれた大日本帝国海軍中佐・工藤俊作に捧げます。』 と、書いた。
2008年12月7日、フォール中尉は除隊後、66年の時間を経て、駐日イギリス大使館附海軍武官付き添いのもと、埼玉県川口市内の工藤の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えた。
2014年1月、フォール中尉もこの世を去る。享年95歳。
捕虜たちのその後
捕虜たちが収容された病院船オプテンノールはその後日本軍に抑留・接収され、捕虜たちは同船に収容されていたオーストラリア人やオランダ人の捕虜とともに日本に送られる。
そして彼らの多くは麻生鉱業(後のは麻生セメント、現麻生グループ)に割り当てられたが、麻生鉱業は労働環境が劣悪な今で言うブラック企業であり、捕虜たちは虐待されながら働かされ、戦後に強制労働として問題になった。エクセターやエンカウンターの元乗組員たちとともに働かされていたオーストラリア人捕虜は、麻生太郎(麻生セメント元社長)が首相だった時代に麻生に謝罪を求める手紙を出している。
pixivでは
ブラウザゲーム艦隊これくしょんの影響で、駆逐艦「雷」をモデルにしたキャラクターとセットで描かれることが多い。
(左上の絵には響がいるが史実でも工藤は1942年8月に駆逐艦「響」艦長に就任、11月に海軍中佐に昇進している。)
関連項目
工藤俊作(無印)