キスカ
きすか
概要
キスカ島はアリューシャン列島(アメリカ合衆国アラスカ州)西部のラット諸島に位置する島である。島の北部には標高1,221mの火山があり、1962年と1964年に噴火している。キスカ島は1741年にヴィトゥス・ベーリングによって発見され、1867年のアラスカ購入によってアメリカ領となった。
キスカ島撤退作戦に至るまで
太平洋戦争中の1942年6月にミッドウェー作戦の陽動作戦として日本軍が攻略・占領したことで鳴神島と命名された。
しかし、アメリカもこれには黙っておらず、奪還作戦としてキスカの日本軍守備隊と交戦を始めた。これによって守備隊は、物量で勝るアメリカ軍、連合軍によって完全に包囲されてしまった為、補給のルートも絶たれた孤立状態になってしまった。
これを受けて日本軍はキスカからの撤退を決定し、「キスカ島撤退作戦」を敢行。木村昌福少将率いる救援艦隊:第五艦隊によって、守備隊は同年7月に無事救出された。
だがこの撤退作戦も容易ではなかった。当初は潜水艦による撤退を計画したが十分な戦果を上げられず、駆逐艦等による水雷戦隊へと変更。現地に発生する濃霧を利用して相手方の空爆を避けつつ、味方艦との連携を取るため電探を搭載した艦船を投入するなど綿密な準備がなされた。
当初は気象台の予報を受けて7月上旬に決行したものの、霧が晴れてしまいやむなく反転。二度目は非常に霧が濃い中で進軍したため、味方鑑同士で接触事故が発生し一部の艦を帰投させざるを得なかった。そして残った艦は、島の正面からではなくあえて反対側に周り込み、島影に隠れて敵のレーダーをかい潜り、一気に突入して無事撤収を完了させた。
一方のアメリカ軍は、日本よりも高精度のレーダーを用いてキスカ島に日本軍艦船が接近しているのを捉え、包囲艦隊はレーダーによる艦砲射撃を行った。しかし後にレーダーの誤反応だと分かり、弾薬を無駄に消費した艦隊は補給のため一時的に島を離れた。
実は、キスカ島に日本軍が突入し、無事に撤退作戦を成功させたのはその時だったのである。
この撤退作戦はキスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれる事無く、日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから後年「奇跡の作戦」と呼ばれるようになり、戦争を扱った映画や漫画、ゲームなどでも度々取り扱われることがある。
コテージ作戦
日本側の記録では厳しくも美しい撤退戦だったが、
アメリカは、「史上最大の実戦的な上陸演習」と後の歴史家から皮肉られる、
キスカ島奪還作戦を実行する。
その名は、「コテージ作戦」であった。
もう2週間以上も前からもぬけの殻になった8月15日、
誰もいない島にまず空襲を敢行するが、この時の搭乗員が、
- 味方機の爆撃による煙を日本軍の対空砲火と誤認。
- 野生のキツネが動き回っているのを日本軍兵士と誤認。
- 発令所の位置関係を誤認し発令所が移転していると指揮官に誤報告。
…………と、素敵な誤報告によりアメリカ・カナダの司令部は日本がキスカ島を守り抜く気でガチガチに固めていると判断。
3月前にはアッツ島で陸上兵力4:1、さらに海上・空爆の支援をつけて600名もの戦死者を出した苦い経験から、超がつく慎重体制に入る。
この結果、南と東から艦砲射撃を行い、さらに南から上陸すると見せかけ、実際は初日には島中央の北側に上陸し、二日目には島北部の西側に上陸する、という超大掛かりな上陸作戦が計画された。
誰もいない島に丸一昼夜艦砲射撃を撃ち込んだ後、上陸に移るが、兵士は「精強な日本軍」の情報に浮き足立っており、さらにこの島の気まぐれな天候によって視界が悪くなるたびに同士討ちが発生。日本軍は1人もいないのに100名の戦死者が出た。
さらに、日本の軍医が撤退前に、兵舎に「ペスト患者収容所」と書かれた立て看板を置いておくと言う悪戯を施していた。これを見た米軍は驚いて「ペストのワクチンを大量に送ってくれ」と本国に要請してしまう。この際、看板の翻訳に当たった通訳官ドナルド・キーン(後、日本文学者となり、日本に渡る)は、ペスト菌罹患を疑われて後送され、そのまま療養所で終戦を迎える。
当然、当の米軍は至極慎重かつ大真面目だったのだが、傍目にはギャグがコントとしか思えない作戦(失態)であった。
なお、前述のキーン氏が「ペスト患者収容所」がイカサマだったと知るのは終戦後かなりの時間が経ってからであり、ペテンを仕掛けた軍医とも後に邂逅を果たしている。