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エドガー・ドガの編集履歴

2016-02-25 17:16:12 バージョン

エドガー・ドガ

えどがーどが

フランスの印象派時代の画家、踊り子の画家として有名。


Hilaire Germain Edgar de Gas〈Edgar Degas〉

フルネーム:イレール=ジェルマン=エドガー(エドガール)・ド・ガ

〈エドガー(エドガール)・ドガ〉


生没:1834年 -1917年(87歳)

 フランスの印象派時代の画家 「踊り子の画家」


4兄姉妹の長男、パリの銀行化ド・ガス家に生まれる

 戸外での製作を行わずすべて家に引きこもって作品を制作した。パステル画に優れる。右目は若いころにすでに失明しかかっており、主に左目を頼りに描いた。彼は生前作った作品以外の個人情報を漏らさないで亡くなった。どうゆう生活を営んでいたかは創造するしかないが、彼は少年時代からバレエを見ており、中年から晩年はアパートに住んでおり家政婦が二人がいた(老婆とその若い娘)彼は同時代の貴族・資産家階級以外の画家以外で生前でもかなりの経済的成功を物にしており・貧主流で売れなくて無残に餓死病死で散って逝った無名の印象画家、その他大勢の無名市民画家からすれば相当に異質な存在である。表面上ではハードボイルドな偏屈紳士で通っていた。(ニューヨーカー


 彼は当初日本で言う日展(サロン)での成功を標にし、ギリシア時代を題材にした絵画やキリスト教を題材にした絵画を描いたがなぜかうまくいかなかった、うまくいかなかったのは、態度で表さないが彼の場合はモデルを本当にゾッコンになる癖があったからだ(美青年女性の裸体)、新古典画家というのはすばらしく舐め回したい裸体を描ける人たちだったが、マネキン相手に描いているのと変わりないぐらいの心の冷たい奴か。鼻から売春目的でモデルを募集しデッサンせずレイプした見るに耐えないぐらいの下劣な奴らが多かったように思う。(裏を返せば実に実に羨ましいことでもある)


 彼はサロンを棄て一匹狼になる覚悟をし、独力でパリの画商らに売り、また国外にも手を伸ばし大英帝国やアメリカの画商と契約したが決定打にはならなかった、おまけに自分の家が体たらく会社経営で自己破産、大借金を抱えてしまう、これがきっかけでドガの兄弟の内1人が犯罪を犯しくたばる。もともと働いたことのない無職ドガは迫りくる死と先の人生への闇への恐怖に精神と気を病みまくったが自分ではついに死ねなかった。G・クールベのようなフランス皇帝に『恥さらしめが』と激怒され死刑宣告を出される真の無頼画家。社会主義革命家で暴動を指揮し投獄されるほどの死を恐れぬ鉄砲玉・気力・思考回路をもった画家ではなかった、プライドだけが高いへタレになにができようか。そこにちょうどよく第一次世界大戦が勃発し兵卒として従軍した。死んだら死んだで本望だったのだ、砲兵だったけど死ぬつもりだったし。しかし彼は生き残ってしまった。目が悪かったおかげで前線に出る事は許可されなからだ、戦力外・・・(画家としては致命的だったが、病気や災難は人生的には利点なと気もたまにある)


 戦後、死にそびれ路頭に迷いまくり路上生活に近いのドガが見つけたのはへルノワール・モネ・マネが新しい展覧会・画家の集まりを作るというものだった。

彼はそこに参加した、彼を理解するのは比較的オープンだったモネやルノワールより難しく感じる。他人に頑固で、皮肉屋で冷笑的態度を他人にとることが多かったとされるが、反面残っている彼の手紙の内容はいろいろ愚痴のように税金・借金・オタク的憂鬱・糞な人間関係・糞な奴らへの馬事などがあり、画法や絵の関しての自己満足的なテーゼ(綱領)などがある。


 彼の文体からにじみ出てくるのは中性的なマセた少年)ぽい感じを少し感じる、これはルノワールやモネなどの手紙からはそういった感じは受けない。彼らは結構硬い感じがする。ただし残っている肖像は髭もじゃ紳士しかない。このことから考えられるに、少年愛疑惑のある作曲家チャイコフスキーとかに似通っていたのかもしれない、結局この人はロリコンだったのかそれ以外なのかは永遠に謎である、


 彼は脳機能障害の一つで『カメラアイ症』の能力を持っていた可能性があるけれど(このことに関しては近年)、彼は鬼のような厳しき努力家(常に書いている)であるという他人の文献が残っていることからも彼の才覚はかなりの試行錯誤の賜物でもあると思う。印象画家として生前から画像を捉えデッサンに移し変える能力が異常に高いとされ売りにていた。


 ドガは印象派画家との別の美意識を持ち、ルーブル美術館」の絵をすべて「模写」したと豪語していた。美術本でもドガは西洋古典絵画系でもデッサン狂いとされていることが多い。ドガの下書きはダヴィンチの下書きより、難易度がとてつもなく高い印象を受ける。なぜかかなり難しいような印象を受ける。しかし日本で言う日展のサロン系の古典画家からは『下手糞』というレッテルが消えることはなかったという。ドガはそういった古典画家に馬事合戦を行った。(画家の他の画家に対する死に物狂いの言いがかり難癖癖は今も昔も変わっていない、蹴落とすことしか考えていない。)


 彼の書いた作品を描く作業、日々の中から一転に絞って絵に凝縮するというスタイルは、私小説的なものを感じる、現在では西村健太的な日々起こった事を日々日記を書く感じでスケッチを一日一日書いたような生活スタイルだったと考えられる。それを機械的に集約してカンバスに油彩に現したように思う。この時点でもはやルノワールやモネといった、書かれそうな『内からほとばしる感性と情熱』に任せて体力重視の力任せに描いたという前向きな印象画家とは相容れない。


 ドガはドガでかなりの情熱と力任せに描いたんだろう、でも基本的にタイプがぜんぜん違う将棋囲碁みたいにちがっている。西村のように日記を客観的に書きつけるという『技術』はなかなか出来そうで出来る代物ではなく、この独自のさじ加減はもう西村しか出来ない。たぶんドガというタイプの画家も『なんでこうゆう場面をさもある風に描いた・写真で取れるじゃないか、トレスだ』といって描けそうになるのだけれど、明らかに中世の技巧バリバリの伝説的な画家連中の作品と比べればドガは絶対描けそう感があるのだ、しかしそれは絶望的な勘違いであり、相当寝ぼけたことだった。これもドガにしか見えないさじ加減があり、ドガにしか出来なそうだ。でもなんとなく一応は描ける。


1917年没


作品

踊りの花形

模写ドガ『ダンスレッスン』模写
ドガ/ダンスの試験(模写)


関連タグ


ルーブル美術館  画家 バレエ バレエ・ボーイ

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