概要
元読売ジャイアンツ一塁手、1982年から84年までジャイアンツの監督を務めるが退任。1995年から福岡ソフトバンクホークス初代監督に就任、2008年に勇退してからは福岡ソフトバンクホークス球団会長を務める。第1回WBC日本代表監督。東京都出身で台湾籍。早稲田実業から1959年にジャイアンツに入団し、長年にかけて数々の記録を打ちたて、長嶋茂雄と共に国民的人気を得ていた。
1977年にハンク・アーロンを抜く世界新記録の756号本塁打を打ち、初の国民栄誉賞が授与された。通算本塁打868本はいまだに破られておらず、その偉大な成績から「背番号1」は今なおジャイアンツの永久欠番として「背番号3」の長嶋茂雄、「背番号14」の沢村栄治、「背番号16」の川上哲治、「背番号34」の金田正一とともに長く語り継がれている。ちなみに「背番号4」もジャイアンツの永久欠番となっているが、この背番号をつけた黒沢俊夫が「腸チフス」で死去したこと、「4=死」につながる縁起の悪さからきており、他の「永久欠番」とは事情が大いに異なっている。
選手として
本塁打記録の印象から、スラッガーとしての印象が強いのだが、選球眼の良いアベレージヒッターとしても超一流であった。本人曰く、「ホームランに必要なのはパワーではなく、タイミングと体重移動」との事。
とりわけ選球眼の良さは、きわどい球でも選球眼の良い王が見逃したのだから、ボールだろうと思わず審判が考え、コールしてしまうため、「王ゾーン」と呼ばれていたほどであった。
また、その大多数がライトへの引っ張るホームランだったため守備位置を極端な右に寄せる、現在における守備シフトの原型ともいえる「王シフト」と呼ばれる対策を他球団が編み出した事でも知られる。ただし、王がその頭上を越える本塁打を打つことが多かった為、シフト自体の効果はあまりなかった(もっとも、考案した側も逆方向を狙わせてバッティングを狂わせるという精神的な揺さぶりの方が狙いだったらしい)。
また、守備面でも一塁手として9年連続ダイヤモンドグラブ賞を獲得するほどの名手であった。
人物像
これだけの偉大な成績を残しながら、ホームランを打ってもガッツポーズを取らないという姿勢に代表されるように(ただし当時の世界記録更新の時は流石にガッツポーズを取った)、これは、高校時代、ホームランを打った氏に兄・鉄城氏が「打たれたピッチャーのことも考えろ」と諭されたことから来たといわれており、決して驕る事のない真摯で誠実な人柄として広く知られる。
自身の夫人の葬儀に参加してくれた方々には、王自身が全員に電話で感謝の意を伝えており、また贈られてきたファンレターや年賀状には全部返事を送るなど、とにかく律儀で真面目である。キャンプに持ち込んだ便せんやハガキは数万通と言われている。
だが若かりし頃、寮生活をしていた時期は門限破りの常習犯で、寮生活をしていた選手の中でトップ3に入るほど規律違反が酷かったとか。ところがその3人全員(他の2人は柴田勲と堀内恒夫)が名球界入りを果たしているのだから世の中わからないモノである。
この他大食漢兼大酒豪としても知られ、大食に関する伝説は数知れず、飲み比べをして勝てなかったのは、横綱の大鵬だけだったという。胃癌を患い胃の全摘出手術を受けたのをきっかけに食事量は相当減ったが、当の本人は、「痩せられたからOK」と笑い話にしている。
フィクションでの活躍
現役時代が巨人の絶頂期~暗黒期までと20年の長きに渡った事、晩年に至るまでコンスタントに高い実力を誇り、長嶋茂雄が去った後も長く巨人の4番打者として君臨した(相方の長嶋茂雄は引退数年前の晩年期には加齢で若き日の実力を発揮できなくなり、次第に成績が下がっていったが、王はコンスタントに成績を保った)事で、実は1960年代~1970年代の野球漫画に皆勤していたりする。
その太祖とも言える巨人の星シリーズでは、巨人の3、4番としての存在感からか、破格の扱いで登場している。主人公の星飛雄馬を幼少期から知ると設定され、最終的には兄貴分的扱いであった。それは新巨人の星で顕著となる。飛雄馬の再度の復帰時でも現役の座にあったため、当時は監督に就任したため、長嶋茂雄が出来なくなった選手の立場からの助言を度々し、アニメ版では新・巨人の星の時期が世界記録達成と重なったため、二本も話のタイトルに名を連ねたという偉業を達成した。