解説
1943年3月、ハインツ・グデーリアン機甲兵総監により「防御力を十分に持たせた低姿勢な軽駆逐戦車を必要とす」との要求を満たすものとして、III号突撃砲の生産が行われていたが、1943年11月26日、アルケット社の工場が連合軍の爆撃により破壊され、生産停止状態に陥った。
この為、急遽チェコスロバキアのBMM社が同突撃砲の生産を打診されるが、生産施設の違いにより、BMM社の軽戦車設備では24tのIII号突撃砲の生産は不可能との返答を得る。
これを知ったヒトラーは戦闘重量13tを限度とし装甲は薄くとも可、路上最大速度60km/hの軽駆逐戦車という要求での開発を命じた。
そこでBMM社はII号戦車L型「ルクス」との軽偵察戦車採用競争で不採用になった38(t)戦車の発展型、「新型38(t)戦車(38(t)n.A.)」の足回り部品を流用し、1943年12月に設計を完成、1944年3月には試作車3両を完成させる。
主砲には口径7.5cmのPaK39 L/48が採用され、戦闘室容積の妨げとならぬよう前面装甲板に
張り出しを設けて、この中に砲架を収容するという方式が採られた。
戦闘室は機関室まで一体となる完全密閉式の固定戦闘室であったが傾斜した装甲の為、乗員4名が配置されるには非常に狭い戦闘室であった。
これは同時期、既に開発が進んでいたIV号駆逐戦車と同じ方式である。
だが、戦闘室容積の都合上、主砲は大きく右側にオフセットして装備されており、右側のサスペンションには850kg余分に重量が加わり車体前部が10cm程、常に沈んでいた事からバランスが悪く、加えて視界の妨げにもなり、乗員からは不評であった。
また、主砲は右から装填するように設計されているにも関わらず、レイアウトの都合上、左から装填しなければならなかった。
武装は主砲の他に、戦闘室上部に車内から操作するMG34又はMG42が設置されている。
エンジンはプラガAE 4ストローク直列6気筒液冷ガソリンエンジンであり、160馬力の出力は低く履帯の幅が狭いこともあり、重量の割には路外機動性は良くなかった。しかし、IV号駆逐戦車に比べ8トン軽くわずかに高速であった。
当然だが、生産中に各部に改良が盛り込まれ簡略化も図られたので、生産時期により細部は変化している。
本車は当初、Jagdpanzer 38(t)(Sd.Kfz.138/2)と呼ばれたが、1944年12月に制式名称として「ヘッツァー(勢子)」の名称が、ヒトラーにより与えられた。
ちなみに、従来型の38(t)戦車とヘッツァーは足回りの形状が非常に似ているが、ドライブスプロケットの歯数や転輪の径、履帯の幅やシャーシのサイズが違い、各部品の互換性がない。そのため、従来型の38(t)戦車からの改造車両はない。
悪い事ばかりの本車の様ではあるが、生産性はとても良好で稼働率も大変高く、1944年4月生産型の引き渡しから、1945年5月までにBMM社とシュコダ社で合計2,827両が生産された。
1944年7月からドイツ陸軍直轄の戦車駆逐大隊をはじめ、主に歩兵・猟兵・騎兵、国民擲弾兵師団の戦車駆逐中隊、SS装甲擲弾兵師団に配備されたほか、75輌がハンガリー軍に供与されている。
駆逐戦車の用法に理解の無い指揮官の命令で、各個に前進して歩兵支援を行ったりするとたちまち損害を出してしまった本車であるが、逆に常に小隊単位で運用し、敵を待ち伏せる戦法を徹底した部隊では大きな戦果を挙げている。
派生型として火焔放射戦車も生産され、1944年12月のアルデンヌ攻勢時に約20両が投入されている。
終戦後もチェコ陸軍ではST-I として採用、シュコダ社により1950年までに158輌が作られ使用されたほか、1946年にはスイス陸軍が主砲の7.5cm StuK40 L/43への換装や車内構成の変更を行い、G-13の名で採用、使用した。