概要
一般的な飛行機は、主翼・胴体・垂直尾翼・水平尾翼で構成される。 だが構成要素が多くなるということは、重量が重くなり、空気抵抗も増すということである。
そのため、主翼のみで構成される航空機、全翼機の概念が考えられた。
- メリット
- 全体の空気抵抗が少なくなる:通常の飛行機では水平尾翼・垂直尾翼によって機体の安定性を得ているが、これらと胴体との干渉によって空気抵抗が増すことにもなる。 全翼機はほぼ主翼だけで構成されるのでそれがない。
- 同じ翼面積でも、通常の飛行機より軽量化できる:胴体・尾翼といった部分が無いため、当然重量は軽くなる。 また、構造的にも簡単になるためより軽量化しやすい。 このような利点が着目され、第二次世界大戦末期から終戦直後にかけてのジェットエンジン黎明期によく研究された。
- ステルス性が高い:尾翼などの反射物が少ないため、ステルス性が高くなる。 これはいわば副次的な効果で、全翼機の試験中にわかったことである。 これを主目的として作られたのはアメリカ空軍のB-2のみ。 (Ho229も塗料に炭素粉を用いるなどしていたが主目的ではない)
- 地面効果が高い:大きな主翼だけの機体なので地面効果が非常に高く、短距離離陸が可能になる。
- デメリット
- 機体の安定性が悪い:後述のBIChシリーズで立ちはだかった問題。 通常の航空機では水平尾翼を取り付けることにより静安定を確保するが、それのない全翼機では翼形状を工夫して後退翼にして翼端にネジリ下げを付けるか、反転キャンバーを持つような翼型を使用しなければならない。 しかしいずれも翼面積あたりの揚力は少なくなって効率が悪くなってしまう。 また、大抵の場合は垂直尾翼も存在しないのでヨーイング方向について安定性が確保できず、しかもピッチング方向の場合と違って翼型により安定を確保できない。 さらに垂直尾翼の無い全翼機は横滑りに対する自立安定が大変弱く、外乱や片肺などでフラットスピン状態になると自力回復させることはほとんど不可能。
- 設計が難しい:上記の欠点を克服する為の設計が非常に大変。 因みにB-2は設計にコンピューターを利用し、機体安定に至っては全部AI制御にする事で解決した。
- 着陸に長い滑走路が必要になる:地面効果が非常に高い形状であるがゆえに、離陸とは逆に着陸でパイロットの予想以上に滑走距離が伸びてしまいオーバーランしやすくなる。 また尾翼を持たないため主翼に有効なフラップを付けることが出来ない。(もし通常機のようにフラップを下げると強烈な機首下げ状態になってしまい地面に叩きつけられてしまう)
世界の全翼機とその開発史
ジョン・ウィリアム・ダンの全翼機
世界で初めて全翼機が開発されたのはイギリスと考えられる。
航空エンジニア、軍人、思索家として知られたジョン・ウィリアム・ダンは、1900年代初頭にイギリス陸軍の下で(大尉として)飛行機の開発に取り組んだ。
この時設計・開発したのが、なんと複葉全翼機だったという。 エースコンバット3から借りればボックスウイング機というべきか。
ただし当時はまだ全翼機の概念はなく、無尾翼機とされていたらしい。
詳細は明らかではないが、結局量産などはされなかったようだ。
JG1
1910年、ユンカース社の創設者フーゴー・ユンカースは全翼機の特許を取得。 全翼機の低抵抗と大搭載量に目をつけた彼は大西洋横断用旅客機の開発を目指し、JG1の呼称で開発を行った。
しかし大型機だったため、第一次世界大戦後のドイツにおける開発できる航空機のサイズ制限に抵触し、開発中止となった。
後に開発されたG.38は全翼機ではないがそのコンセプトを取り入れており、胴体は短く、幅が長い大型の主翼を有していた。
BIChシリーズ
1926年のソ連で、B.I.チェラノフスキーという人物が自身の設計したグライダーをもとに全翼機を開発した全翼機シリーズ。
この機体はパラボラ型のフルスパンのエレボンと垂直尾翼を持つ機体で、ぶっちゃけ見た目は空飛ぶ分度器であった。
しかし飛ぶには飛んだものの、安定性が非常に悪く一瞬のミスで墜落しかねない有様だった。
BIChシリーズは改良型をいくつも制作したもののどれも安定性がネックになって失敗に終わり、安定性を求めて改良していった結果機体形状も全翼機からデルタ翼機に変わっていった。
かつをどり
日本陸軍で開発されていた全翼機。
1936年の12月、萱場製作所の社長だった萱場資郎が陸海軍の航空関係者へ郵送した「成層圏飛行機申言書」には、カツオドリやイカにヒントを得た無尾翼高速ジェット機の開発を進言するものだった。
(1935年の時点でジェットエンジンと聞くと驚くかもしれないが、1930年代にはドイツとイギリスもジェットエンジンの研究を始めていた)
『かつをどり』と呼ばれたこの航空機の計画は、翌年1月に陸軍の出資によって萱場製作所が5年間でジェットエンジンの開発を行うことで決定し、萱場製作所内部にジェットエンジン搭載航空機の開発を目的としたKF研究課を設置。
小川太一郎工学博士と中西不二夫工学博士、石川政吉工学博士のほか、嘱託として日野熊蔵退役陸軍少佐が参加し、ペーパーモデル試験などを元に1938年には最初の試作グライダーであるHK-1が完成した。
しかし陸軍側の飛行試験の際、N少佐が機体特性(恐らく主翼だけという全翼機の構造上ピッチングがかなりききやすい事だと思われる)を理解せず強引に下げ舵を取った結果、機体は墜落し大破。
改良型のク2でも着陸時に同様の失敗をしたにも関わらず、N少佐は事故原因をHK-1及びク2が低性能であったためと断言。 彼の報告を受けた陸軍は、後継機の開発及び無尾翼機の開発計画を打ち切ってしまったのだった。 (N少佐の本名は記載されておらず不明)
ホルテン Ho229
1944年から45年にかけて、ナチスドイツで開発されていた全翼戦闘攻撃機。 Go229とも呼ばれる。
詳細は当該記事にて。
ジャック・ノースロップの挑戦
航空技術者で航空実業者だったジャック・ノースロップはノースロップ社を設立、生涯をかけて全翼機の研究開発をし続けた。
N-1Mに始まりYB-35、XP-79、YB-49と開発を進めたがどれも正式化されなかった。 だが...
B-2 スピリット
ノースロップの挑戦から30年後、アメリカ空軍が制式化した、世界で唯一の実用全翼爆撃機。 ステルス機としても有名。
詳細は当該記事へ。
X-47 ペガサス
ノースロップ・グラマン社で開発されたUCAV艦上攻撃機。 世界初の無人艦上攻撃機にして全翼機である。
しかしAIの性能不足や、伝統的に戦闘機パイロットが重視される空母打撃群の反発などが要因で2016年、艦載機型のB型は開発中止。
A型は今後開発される無人攻撃機の実証機開発のベースになるらしい。
RQ-170 センチネル
ロッキード・マーティン社で開発されたUAV。 Ho229ソックリ。 正式採用されており、現在はアフガニスタンに配備され不朽の自由作戦に参加している。
なお2011年12月6日、一機のRQ-170がイラン空軍に鹵獲された。
撃墜して修理したわけではなく、GPS信号の上書き偽装によってRQ-170がホームベースに帰着したと誤認識させたという。
イラン空軍は後にこの機体をコピーした新型偵察機も開発したことを発表している。
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