概要
元治元年(1864年)、江戸幕府は京都守護職で会津藩主の松平容保の配下として、蒔田廣孝と松平康正を京都見廻役に任命した。蒔田・松平がそれぞれに配下の組を持ち、それぞれの官職名から相模守組(蒔田)と出雲守組(松平)と称され、各200名ほどの隊士を指揮した。隊長である与頭は旗本、隊員は御家人であった。詰所は二条城の側に置かれたとされる。与頭、与頭勤方、肝煎、見廻組、見廻組並、見廻組御雇、見廻組並御雇などの階級があった。
見廻組は新撰組と同じく、反幕府勢力の取り締まりを行ったが、見廻組は主に御所や二条城周辺の官庁街を管轄とし、新選組は祇園や三条などの町人街・歓楽街を管轄とした。そのためか、新撰組と共同戦線をとることはあまり無かったようである。身分の違いにより反目することもあったという。
大政奉還後、相模組与頭の佐々木只三郎、組士渡辺吉太郎、高橋安二郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、今井信郎らが坂本龍馬の暗殺(近江屋事件)に関与したとされる。
慶応3年(1867年)12月14日、新遊撃隊に改称されたが、同月25日見廻組に名称を戻し戊辰戦争に参加、慶応4年(1868年)3月18日狙撃隊に改称された。戊辰戦争で降伏した。
関連項目
新撰組・・見廻組の下部組織
前島密…京都見廻組前島錠次郎の没後、その跡目を継いで開成所教授となった。