要項
オスカー・クメッツ。(1891年7月21日~1980年12月17日)
軍人。上級大将。
経歴
1891年7月21日、東プロイセン、イルロウヴォに誕生。
1910年、海軍兵学校入校。
第一次世界大戦では戦艦ヘルゴラント、ポーゼンに乗組み、魚雷艇長など務める。
戦後は第三水雷艇半隊司令、水雷艇部隊司令官、バルト方面海軍参謀長などを歴任し、第二次世界大戦開戦時は大佐として艦隊司令参謀長を務めていた。
1939年12月、水雷部監察官に就任。
1940年1月、少将に昇進。
4月7日より始まったノルウェー侵攻「ヴェーゼル演習作戦」においてオスロ攻略部隊である第五戦闘グループの指揮官として重巡洋艦ブリュッヒャーを旗艦として装甲艦リュッツォウ、軽巡洋艦エムデン、水雷艇三隻、掃海艇八隻、トローラー二隻を率いて9日にオスロ攻略に着手するもドレーバク水道を航行中にオスカボルグ、カホルム両要塞からの攻撃を受け旗艦ブリュッヒャーが撃沈され、他にも掃海艇一隻が失われ、リュッツォウ、掃海艇一隻も損傷した。
脱出したクメッツに代わりリュッツォウ艦長のアウグスト・ティーレ大佐が指揮を執り、オスロのノルウェー軍は降伏。
1942年4月、中将に昇進。
6月、巡洋艦部隊司令長官に就任。
7月のPQ‐17船団攻撃の「レッセルシュプルング作戦」に装甲艦アドミラル・シェーア、リュッツォウ、駆逐艦六隻からなる第二戦闘グループを率いて参加するも、ドイツ海軍出撃に過剰反応した英側は船団を分散させた結果として空軍とUボートの好餌となった為に会敵することなく引き揚げる。この出撃の折にリュッツォウが座礁。
12月30日、重巡洋艦アドミラル・ヒッパーを旗艦として、装甲艦リュッツォウ、駆逐艦六隻を率いて
JW-51B船団攻撃の「レーゲンボーゲン作戦」の為にアルタ・フィヨルドを出撃。
31日、船団を攻撃するも、直接護衛部隊との戦闘はアドミラル・ヒッパーと駆逐艦三隻が引き受け、そのうちに装甲艦リュッツォウと駆逐艦三隻が船団を攻撃する態勢に持ち込んだ時もあったが悪天候の為での同士打ちや魚雷攻撃を恐れて機会を逃す。
結果は駆逐艦一隻、掃海艇一隻を撃沈し、肝心の船団には一隻を損傷させただけに終わり、逆に第五駆逐隊旗艦である駆逐艦フリードリヒ・エックホルトが敵巡洋艦をヒッパーと誤認し接近した為に撃沈され司令アルフレート・シェンメル大佐が戦死し、ヒッパーも駆けつけた間接護衛部隊の英軽巡洋艦シェフィールド、ジャマイカの攻撃で損傷した為にクメッツは作戦を中止して撤退。
1943年、巡洋艦部隊が戦闘グループに名称変更。
3月、大将に昇進。
9月6日~9日、「シチリア作戦」において戦艦ティルピッツ、巡洋戦艦シャルンホルスト、駆逐艦九隻を率いてスピッツベルゲン島に艦砲射撃を行い、同島への陸軍一個大隊の攻撃を支援。
1944年3月、バルト海方面海軍司令官に就任。
9月、上級大将に昇進。
1980年12月17日、死去。
評価
後期ドイツ水上艦隊を支えた提督の一人と言える。
「ヴェーゼル演習作戦」では狭い水道に主力艦を航行させ旗艦を失い、「レーゲンボーゲン作戦」では船団攻撃に失敗してヒトラーの激怒を買い、危うくドイツ水上艦隊は解体される状況を生み出すような失態を犯したが、その後も昇進を続けて最終的には上級大将となっている。
前者では平和的進駐を装ってオスロ突入を果たせとの命令を、後者では主力艦損失で国威失墜を恐れるヒトラーの総統命令を徹底させた「対等の敵との勝負は避け、巡洋艦を危険に晒すな」という内容の命令をクメッツがただ忠実に守った事から責任は問われなかったと思われる。