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かまやつひろしの編集履歴

2017-11-28 20:50:33 バージョン

かまやつひろし

むっしゅかまやつ

かまやつひろしとは、日本のポピュラーミュージック史に燦然と輝く人。

概要

本名・釜萢弘(これで「かまやつひろし」と読む)。またの名をムッシュかまやつ


1939年1月東京都生まれ。父親はアメリカ人ジャズドラマーのティーブ・カマヤツ(なのだが、実はこの人には「釜萢正」という別名があったりする)。


青山学院高等部在学中にプロの歌手としてデビューした。同校卒業後青山学院大学に入学するも芸能生活のために中退している。

ただ、ソロ歌手としてはなかなか芽が出ず、チョイ役俳優として映画に出演したことがあった。その一方で、麻布のイタリアンレストラン「キャンティ」に通っては音楽仲間達と馬鹿話などに花を咲かせたという。


その「キャンティ」の馬鹿話仲間だった田辺昭知が率いていたバンドであったザ・スパイダースに参加、サイドギター兼ボーカルで活躍、さらには「ノー・ノー・ボーイ」、「フリフリ」、「バン・バン・バン」、「あの時君は若かった」などの作曲を手掛けた。ただ、バンド最大のヒット曲は、彼が手掛けた曲ではなかった・・・・・・・・・(ちなみに浜口庫之介が作った「夕陽が泣いている」)。他にも振り付けやステージ衣装のアイディアも手掛けるなど、まさにスパイダースの「知恵袋」として活躍した。


1970年2月にソロアルバムをリリース。実はこの頃になってくると、ザ・スパイダースを始めとする、グループサウンズと呼ばれたポップスバンドは完全に衰退していた。その事を感じてしまった彼は、その年の11月、「のらねぇ」とばかりにザ・スパイダースを脱退してしまう。結果ザ・スパイダースは1970年いっぱいで事実上解散に追い込まれてしまった。


ザ・スパイダース解散後、「フォークソングが面白そうだな」と感じる様になり、当時カリスマ的人気を誇っていた吉田拓郎に接近、吉田とのデュエットソング「シンシア」をリリースしたり、彼に「我が良き友よ」を作ってもらった。特に「我が良き友よ」は100万枚近く売れたそうである。


だが、「ヒット曲にこだわってたら俺はダメになるかも知れない」と感じると、華やかな世界からは一歩引いたスタンツで、肩の力を抜き、好きな様に音楽活動をしていった。その一方で、俳優として、「時間ですよ」(TBSのテレビドラマ)や「戦国自衛隊」(1979年に東宝系映画館で公開された映画)にも出演している。

自分の子供ほど、いやそれ以下の若いミュージシャンと共演することも厭わない姿勢は、多くのミュージシャンから尊敬された。曰く、「若い連中と話出来なくなっちまったら俺は終わりさ」。


2017年3月1日、78歳であちらの世界に旅立ってしまった

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