織田信勝とは戦国時代の武将。(1536?~1557)
通称は勘十郎。
一般には信行の名で知られる。その他にも逹成、信成などと名乗っていた記録が残っている。
概要
織田信秀の三男として生まれる。
奇行の多かった同母兄織田信長とは対照的に、品行方正で家中の信望は高かったという。また、実母の土田御前にもかわいがられていた。
父の死後は織田家の当主が代々名乗っていた弾上忠の位を信長を差し置いて名乗るようになり、兄に対抗するようになった。
二人の性格の違いは事件を起こした叔父信次に対する対処で明確になる。
ある日信次が狩りをしていた際、その横を騎乗のまま通り過ぎようとした若武者がいた。家臣の一人がこれを無礼として威嚇の射撃を行ったが、誤って射殺してしまう。その若武者というのは実は信長、信勝の同母弟織田秀孝であり、それに気づき驚愕した信次は出奔してしまう。
これに激怒した信勝は信次の城下を焼き払うが、信長は無防備だった秀孝に非があるとした。
この事件で一族の繋がりを重視した信勝の方に家中の期待が集まるようになる。
機会を窺っていた信勝は、信長の支援者だった斎藤道三が死んだのを契機に遂に林秀貞、林通具、柴田勝家らと謀反を起こす。しかし通具が戦死し、勝家も敗れたため降伏し、土田御前の取りなしで許される。
その後再度謀反を計画する。しかしこの時勝家は既に信長に通じていた。勝家からの通報で計画を知った信長は病と称し、見舞いにきた信勝を河尻秀隆、もしくは池田恒興に殺させた。
子は許され、津田信澄として信長に仕えた。
フィクションでの信勝
兄弟が家督を争うこと自体はよくある話だが、彼の場合兄があまりにも有名になってしまったため、利口だが、兄を理解できなかった見かけだけの小物として描かれることが多い。また、最期は信長自ら手を下したとされる場合もあり、信長が裏切りを許さない非情な人間となったきっかけとして描かれる事もある。この場合、昔は兄弟仲が良かったとされることが多い。
戦国大戦では前者として描かれ、神経質なショタキャラになっている。
たまに彼自身も優れた人物であり、兄の器を理解した上で挑んだとされることもある。ただ今川義元などと違って若死にし、資料も少ないため、彼の扱いは今後もそう変わらないと思われる。