ブルース・リーとは
生まれはアメリカ(両親の長期巡業中)。幼少期に香港に渡り、そこで中国武術を学び取った。
それまでのアクション映画には無かったリアリティのある格闘戦を持ち込んだことで一大旋風を巻き起こし、後のカンフー映画にも大きな影響を与えた。
日本の漫画や格闘ゲーム等でも、彼をモデルにしたキャラは多い。
截拳道(日本ではジークンドーと読まれている)という武道の創始者でもある。
32歳という若さで急死してしまったが、40年の歳月を経て尚その勇姿は我々を惹き付けて放さない。
来歴
1940年にサンフランシスコにて誕生。生後間もなく香港に帰国し、8歳の時から子役として数多くの映画に出演していた。当時の香港は英国占領下にあり、中国人は様々な抑圧を受けざるを得なかったためか不良になる者が多く、李小龍もまた有名な不良少年となっていた。彼の代名詞であるカンフーは香港時代に習得したものであり、高名な武道家である葉問(イップマン)から詠春拳を学んでいた。
18歳のときに生国であるアメリカに渡り、アルバイトをしながらワシントン大学の哲学科に進学した。大学在学中に「振藩國術館」という中国武術の道場を開き、人種を問わず様々な人にカンフーを伝授した。大学で哲学を専攻したことと道場を開いたことはブルース・リーの奥深い人生哲学を育むこととなり、後の截拳道へと昇華することになる。
24歳の頃から俳優業に挑み、彼のカンフーアクションに目を付けたTVプロデューサーによってTVドラマ『グリーン・ホーネット』の準主役:カトーの役に抜擢されたことで一躍人気者となった。しかし、白人至上主義のアメリカ芸能界において東洋人であるブルースはカトー役以降はなかなか良い役を獲得できず、自らがプロデュースしたテレビドラマ『燃えよ!カンフー』でも主役を勝ち取れなかった。
香港大手映画会社であるゴールデン・ハーベストと契約したことでブルースは活動の舞台を香港映画界に移す。1971年に制作された『ドラゴン危機一髪』は香港映画の歴代興行記録を塗り替えるほどの大ヒットとなり、『ドラゴン怒りの鉄拳』・『ドラゴンの道』とヒット作を連発したことでブルース・リーは香港の大スターとなった。
アメリカと香港の共同制作映画『燃えよドラゴン』の制作には並々ならぬ熱意で取り組み、武術指導に始まり撮影や脚本にも膨大なアイディアを提供し、8キロも痩せるほど働き続けた。念願叶って『燃えよドラゴン』は彼にとって満足のいく出来となり、後は公開を待つばかりであったが、その矢先ブルース・リーは友人宅にて脳浮腫で急逝してしまった。
彼の死後チャイニーズシアターで公開された『燃えよドラゴン』はアメリカを皮切りに世界中で大ヒットした。
影響
ブルース・リーの個性的なキャラクターは世界中の創作物に多大な影響を与えた。鍛え上げられた筋肉・豪快なカンフー・怪鳥のような雄叫び・華麗なヌンチャクさばき・勝利した後の悲しげな顔など、彼の強烈なイメージは我々が今日思い描くカンフーマスターのステレオタイプとなったと言って良い。
時代的な背景としては、1960~70年代のアメリカは公民権運動を皮切りに人種差別撤廃運動が盛んに行われていた時期であり、世界的にも差別問題などに関心が集まっていた。そんな最中、白人以外はまるでスポットライトの当たらないアメリカ映画界において東洋人が主演の『燃えよドラゴン』が空前のヒットを飛ばしたことはかつてない快挙であり、アメリカにおいて人種差別に苦しんでいた人々に少なからぬ衝撃を与えた。
ブルース本人も人種の壁と戦っていた人物であったことから、アメリカのみならず世界各国で人種差別と戦う人々のヒーローとなっていった。
没後30年以上が経った2005年、激しい民族紛争によって多くの血が流れたボスニアの都市モスタルに”平和の象徴”としてブルース・リーの黄金像が建てられたことから見ても、彼の影響力が見て取れるだろう。
ブルース・リー語録
ブルース・リーは自己啓発的な哲学の持ち主で、魂の込められた数々の名言を残している。
「考えるな、感じろ!」
「限界などはない。ただ、うまくいかない時があるだけだ。だが、そこに留まっていてはいけない。それを超えて行くのだ。」
「心を空にしろ
形をなくせ
形をはっきりさせるな
水のように
ボトルに水を入れたらボトルに変形し
ティーポットに水を入れたらティーポットに変形する
水は流れ
水は壊すこともできる
水になれ、友よ」
(インタビューで「あなたは中国人?それともアメリカ人?」と問われた際に)
「自分は人間だ。偉そうに語るつもりはないが、天の下、人類はひとつの家族だ。ただ、人はそれぞれ違うだけでね」
関連タグ
ブランドン・リー・・・息子。