概要
古典的な学説では、兵農分離とは大まかにいって二つの視点から語られる。
1.戦国時代において、農民を徴兵し、農作業から離して特別に訓練することで強固な軍隊を作り上げること。
2.江戸時代において、幕府が国政を管掌するにあたって、農民を武装解除し、武士と農民の身分を明確に区別するために行われた分離政策。
このふたつは一見矛盾しているようだが、学会ではごちゃまぜにして扱われている。
日本において、武士の大半は地方の豪族であり、戦が無ければ家の田畑で野良仕事もしていた。
また中世までは地侍(土豪)、百姓(農民、漁師、商人等)もみな武装しており、戦となれば武器を取って参戦するのが常であった。戦国武将の兵力の大半が、こうした徴集兵によってなりたっていた。
このように、戦国時代末期まで武士と百姓(平民)は、明確な区別がされていなかった。
1の古典的学説によれば、こうした半農半兵を農作業から離し、訓練した「常備軍」とすることで強大な軍隊を作り上げたのが織田信長である、とされている。しかし近年の研究では、こうした兵農分離は戦国以前から行われており、織田信長の独創ではないとする意見が主流である。
やがて豊臣秀吉の天下統一により戦国は終わり、庶民(百姓)が武装している時代は過去のものとなった。秀吉の行った「刀狩令」により、百姓から武具が徴収された。
この政策により、公僕・官僚たる武士と、食糧生産を担う農民が明確に区別された。
こうした政策は、農民を農業に専念させると同時に、万一に一揆や強訴の際に武装化される危険性をなるべく排除するという側面もある。
しかし主な目的は、あくまで身分制の問題であった。刀狩りでは農民から「刀」を取り上げた一方、弓矢鉄砲などはほぼ据え置きであった。
島原の乱があれほど大規模になった原因は、これらの兵器が農村にごっそり残されていたからである。