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悪路王の編集履歴2018/10/07 14:59:02 版
編集内容:エミシとエゾについて追記

悪路王とは

  1. 陸奥国達谷窟の鬼神
  2. 陸奥国霧山の鬼神 → 大武丸
  3. 伊勢国と近江国の境にある鈴鹿山の鬼神 → 大嶽丸

ここでは1.について述べる。

概要

『吾妻鏡』文治5年(1189年)9月28日の条に、源頼朝鎌倉へと帰る途中に平泉の達谷窟を通ったときに「田村麻呂や利仁等の将軍が夷を征する時、賊主悪路王並びに赤頭等が塞を構えた岩屋である」とあるのが悪路王に関する最古の記述とされる。

この吾妻鏡の記述がのちに東北各地の本地譚(地方伝説)に取り入れられて坂上田村麻呂伝説が形成されたものと思われる。

また吾妻鏡では坂上田村麻呂藤原利仁が悪路王や赤頭らを討伐したという話であるが、取り入れられる過程で田村麻呂利仁という一人の人物として融合され、両者を同一人と混同したり、父子関係においたりする地方伝説もある。

伝説中の坂上田村麻呂は、蝦夷エミシ)と戦う武人とは限らず、各地で様々な鬼や盗賊を退治している。伊勢の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女である悪玉姫立烏帽子)と結婚し、その助けを得て悪路王や大武丸のような「鬼」の頭目を陸奥の辺りまで追って討っている。

物語『田村草紙』、謡曲『田村』、奥浄瑠璃『田村三代記』などが作られ、江戸時代の『前々太平記』にも収録されている。

よく誤解されるが陸奥国(現在の青森県岩手県宮城県福島県)の蝦夷(エミシ)の賊主であり、蝦夷地(現在の北海道)やアイヌとは無関係である。

名前の由来

鳴子町史』では、延暦八年(797年)に紀古佐美を征東大使に任じ、兵五万余をもって征伐に向かわせて衣川まで進んだが、食料不足と寒気に悩まされて、結果的に阿弖流為アテルイ)に破られ、数千人の戦死者をだして惨敗した。このことは『日本後記』に示されているが、そこには当時の道が如何に「悪路」だったかが明記されており、アテルイが悪路王と呼ばれた理由ともなっている。

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