日本時間の昭和16年12月8日未明、休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊と基地に対し、日本海軍が航空機および潜航艇によって攻撃した、初戦の南方作戦の一環として計画された作戦であり、これによりアジア地域を植民地支配していたアメリカ、イギリス、オランダの三ヶ国に対して開戦した。
日本は国力・戦力が圧倒的な相手であるアメリカを相手に戦争することを望んではいなかった。だが、アジア・太平洋における日米の利害対立は、ほとんど妥協不可能なレベルまで高まっており、開戦をおおむね決めていたアメリカは、日本側が到底受け入れることができるはずもない要求(いわゆるハル・ノート)を突きつけた。結局、日米交渉は決裂し、開戦が決定した。
ハル・ノートが列記した十箇条のなかには、在米日本資産の凍結解除、円価の安定などの条項もあったものの、中国大陸と仏印から一切の陸海空軍と警察力を即時撤収することや、蒋介石の重慶以外の政権を認めることを禁じており、つまることろ、日本が満洲事変以来、多くの犠牲を払いながら築き上げてきた中国・アジアでの権益をことごとく放棄せよ、と要求するものであり、日本が到底受け入れられるものではなかった。また日独伊三国同盟からの実質的な離脱を求めていたことも、国家の信義を裏切る国際条約の否定であったため受諾不可能であった。
東條英機首相は、「ハル・ノートを御覧になって、いかに平和を愛好され給う陛下も……」と口をつぐみ、開戦の重大な責任は、天皇輔弼の責任者である自分が負うべきことに気付いたという。昭和16年11月29日に、東條以下主要閣僚と重臣が宮中に参内し、昭和天皇に前日の閣議による開戦の決定を上奏した。12月1日に御前会議が催され、ついに、開戦の聖断が下った。
アメリカのルーズベルト大統領は、ハワイ海戦の前夜に、ホワイトハウスに家族全員を集めて、夕食を楽しみながら談笑中、中座した。ほどなくして戻ってくると、晴れやかな笑顔を浮かべて、家族を見回して「戦争は、明日始まるよ」と言ったとか。
ワシントン時間の7日朝、日本大使館に本国政府から、暗号帳を直ちに燃却し、最後の一台の暗号機を破壊するように指示した訓令が送られた。国交断絶の直前にかならずとられる措置である。
日本時間の12月8日午前3時19分、第一波攻撃隊総隊長の淵田美津雄中佐が真珠湾の上空にて指揮下の攻撃隊に対し「全軍突撃せよ」を意味する符丁「ト・ト・ト・・・」(ト連送)を発し、奇襲攻撃を開始。奇襲攻撃が成功すると淵田中佐は日本時間3時23分に機動部隊の旗艦赤城に対し「我、奇襲に成功す」を意味する符丁「トラ・トラ・トラ」を発した。
第一波攻撃は、ハワイ時間の午前7時53分に始まり、真珠湾が劫火に包まれた。
日本では12月8日午前6時、米英二国に対して戦争状態に入ったことを知らせるラジオの臨時ニュースが流れた。
「大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表 帝国陸海軍は本八日未明西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり」という短い発表であった。
アメリカの東部標準時間で12月7日午後1時に最終覚書を手交するよう、在米大使館が本省から厳密に指示されたにもかかわらず、野村吉三郎・来栖三郎両大使は日米が開戦したことを知らず、野村、来栖両大使がハル国務長官に手交したのは、真珠湾を攻撃した後の午後2時過ぎになった。そのとき、すでにハル国務長官の元には真珠湾攻撃の情報が届いていたのである。日本側の意図はどうあれ、結果的にはハワイ海戦は日本が国際法を違反した形になってしまったのである。
アメリカ側は日本海軍の作戦を知っていたというお話
日本海軍の奇襲攻撃によって太平洋艦隊が一瞬にして大打撃を受けたアメリカは、「リメンバー・パール・ハーバー(真珠湾を忘れるな)!」をスローガンに国民を総動員して、戦争に突き進んでいくことになる。
だが、この奇襲攻撃については「ルーズベルト大統領は暗号解読によって、日本軍の動きを事前に知っていたが、『先に攻撃したのは日本』という状況を作り出すために、わざと先制攻撃させた」という陰謀論がある。その状況証拠としては、アメリカでは開戦前日の6日夜に解読された外交文書の最終覚書が大統領執務室に届けられており、ハル長官も全文を読んでいたが、ハワイの太平洋軍司令部にだけは伝えていなかった点が、よく取り上げられる。
また、これに付随する形で「開戦の口実作りと時代遅れの戦艦部隊を一掃するために戦艦を囮につかい、重要な空母は被害を受けないように真珠湾から退避させた」と言う日本軍誘い出し説というのもある。
しかしこれに関しては、当時「重要なのは戦艦であり、空母は補助的な役割に過ぎなかった」という反論がある。それこそ日本軍が真珠湾攻撃を初めとした航空戦力を活用したために空母の重要性が見直されたのであって、開戦当時の艦隊主力はあくまで戦艦であった。
戦時中から日本・アメリカ双方の国内でこの陰謀論が囁かれていたが、現在ではまともな学者には相手にされることはない。