概要
今でこそ日本を代表する作品の一つとなった墓場鬼太郎そしてゲゲゲの鬼太郎だが、その原典は伊藤正美による、蛇人間を主人公とした紙芝居「鬼太郎/奇太郎」である。しかも江戸時代までに伝承されていた「子育て幽霊」の民話をモチーフとしており、さらに「子育て幽霊」からして、話の根拠の一つに中国に古くから伝わる怪談・「聊斎故事」にまで遡る可能性も示唆されている。
1960年、水木しげる氏が、兎月書房が墓場鬼太郎への原稿料を支払わないことで同書房と絶縁し、三洋社(今の青林道)のガロにて「鬼太郎夜話」をスタートした。
これに対抗して兎月書房は、同じ紙芝居畑の出身の竹内寛行(たけうちかんこう/ひろゆき)氏を兎月書房版の墓場鬼太郎の作者にして続きを担当させた。これが竹内寛行版である。第4~19巻まで竹内氏の手によって発行されている。
水木しげる版とは異なる雰囲気や描写があり、「水木氏の絵より画力も劣り、グロテスクなだけで水木氏の作品に有った愛敬も乏しく味気ない」と酷評も多いが、戦後の東京下町のノスタルジックな雰囲気等については定評がある。
水木側の見解
竹内寛行氏によるバージョンは、水木しげる研究及び公式においては、水木氏の妖怪デザインの元ネタ、妖怪伝承の内容、水木氏による海外小説の翻案、飛び出せ!ピョン助などの海外作品の翻案(参照)などと共に一種のタブーとされる場合もある。
が、元親は水木しげる氏であり、「兎月書房版・もう一つの墓場鬼太郎」となっている。
- 元ネタと伝承に関して、一部の識者から水木氏は「伝承の伝道師でもあり破壊者」でもあるともされてきて賛否両論な面もあった。水木氏や水木プロ側が同じ妖怪に関して異なるデザインを上げているのもその方面から指摘された事もあったし、「今の倫理観でアウト」と斜めな角度から見る人もいるらしい。しかしネット社会になった事が幸いして、水木氏がきっかけで原典の探求が進んだのは事実。また、ネットのない世代において水木氏とスタッフや関係者による情報や素材の収集は並々ならぬ努力と行動力を要した。そのため、「伝承の存在を紹介する」という意味で水木側の「伝道師」としての評価が上がったとも言われる。ただし、水木側の「伝道師」としての評価が高まったのは決して近年の話ではなく、それは現在の若い世代の勘違いで、実は昭和40~60年代初頭にも水木氏の妖怪画や研究は、しかるべき民俗学等の機関・専門家から既に高い評価も受けていた。それは、水木氏自身が鬼太郎のヒットで生活面に余裕ができ、江戸時代に鳥山石燕が描いた『画図百鬼夜行』シリーズを本格的に集め、極貧だった貸本時代から妖怪の絵や話や情報を細目にスクラップ収集した分と照らし合わせて吟味し、本格的な妖怪画の完成を目指してもいた故で、その成果が画集の解説に表れており、専門分野の学者からも正当に評価されていたのである。
この竹内寛行氏に関して水木氏は当初は黙認しつつも激怒したとされている。兎月書房に対しては未払いの原稿料の支払いと竹内版の中止を請求し、兎月書房での連載を再開する事で和解と中止が成立。そして生まれたのが河童の三平だとされる。また、西洋妖怪との戦争等、水木版の鬼太郎シリーズに竹内版の影響を指摘するという声も少数派だが一応は存在し、その後の鬼太郎シリーズの形成に竹内版が僅かだが影響もあったという見方も出来なくはない。
一方で、黙認した背景には水木氏と竹内氏は元々友人であり、竹内氏も本来鬼太郎のファンだったこと、また、紙芝居師の貧窮は普遍的であったことや、作品を惜しむあまりに「1巻だけで良いから描かせてくれ」と水木氏に約束をした竹内氏に、その後も強制的に続行させたのが兎月書房だったこと、などがある。