概要
フレディ・マーキュリーとは、英国のロックバンドQueenのヴォーカリストである。
担当楽器はピアノ。
高い歌唱力とパフォーマーとしての圧倒的な観客掌握力を併せ持ち、
世界最高のヴォーカリストと評価されている。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」の第18位に選ばれた。
生い立ち
1946年9月5日、当時イギリス領であった東アフリカ・タンザニアのザンジバルにて誕生。本名はファルーク・バルサラ(バルシラとの表記もある)。両親はペルシャ系インド人であり、パールシー(ゾロアスター教徒)。
幼少期はインドで過ごし、8歳の頃から全寮制の寄宿学校に通い始める。
このころからバンド活動に参加しており、主にヴォーカルとピアノを担当した。
17歳の頃にイギリスに移住し、工業学校を経てアート・カレッジに入学。修了証書を取得。
卒業後はバンド活動を始めるも上手くゆかず、
1970年にブライアン・メイとロジャー・テイラーの二人が所属していたバンド、「スマイル」に参加。このバンドが後のQueenの母体となる。
1973年にQueenがメジャーデビュー。
フレディはバンドの中心的メンバーとして多大な貢献をし、多数のヒット曲を生み出す。
彼の代表作には「ボヘミアン・ラプソディ」、「キラー・クイーン」、「伝説のチャンピオン」、「ドント・ストップ・ミー・ナウ」などがあり、これらは日本でも馴染み深い楽曲である(また、彼がソロ名義で発表し、後にQueen名義でリメイクした「ボーン・トゥ・ラブ・ユー」も日本では有名である)。
ライブにおけるパフォーマンスにも定評があり、1985年のアフリカ救済チャリティーコンサート「ライブ・エイド」では、同じく出演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイら名だたるアーティストを差し置いて「この日最高のパフォーマンス」と絶賛されている。
1987年以降はライブ活動を停止。
実はフレディはバイセクシャル(両性愛者)としても知られ、このころにHIV患者であると診断を受けている。
その後も音楽活動を続けるがフレディの病状は悪化の一途を辿り、1991年11月22日、自身がHIV患者であるとの正式な公表を行い、その翌日、エイズによる気管支肺炎によりケンジントンの自宅にて死去。享年45歳。
当時エイズはそこまで有名ではなく、前年にキース・ヘリングが亡くなった事でようやく世界的にその危険性が知れ渡り始めたに過ぎなかった病気だった。悲劇的にも彼はエイズにより命を落とした先駆けとなってしまったのである。
ミュージシャンとしてのフレディ
ヴォーカリストとしては、一説には4オクターブとも言われる幅広い声域と正確なリズム感、木管楽器風のヴォイス・パーカッションを披露するなどの高い表現力を併せ持ち、ロック界でも優れた歌唱力を誇る。レコードではファルセットを巧みに交えた優美な歌声を聴かせるが、ライブでは一転してフェイクを交えたシンプルでパワフルなヴォーカルを聴かせる。
ピアノは7歳の頃から学び始め、作曲も主にピアノで行っている。ライブでもその腕前を披露してお
り、様々なアドリブを加えるなど活き活きとした演奏を聴かせている。
親日家
デビュー当時は現地メディアの悪意のあるバッシングに晒されたが、
日本では若い女性を中心にして熱狂的な人気を博していた。
「キラー・クイーン」のヒットを受けての初来日公演では日本のファンの熱烈な歓迎を受け、
フレディを含むQueenのメンバーはこの一件以来大の親日家となった。
特にフレディは伊万里焼を収集したり、自宅に日本庭園風の庭を造りそこに日本から空輸してきた錦鯉を放し飼いにするなどして、日本文化を愛した。
新宿二丁目にはいきつけの店もあったという。
またソロ名義で「La Japonaise(ラ・ジャポネーゼ)」という、歌詞の大部分が日本語で歌われているナンバーも残している。
アクションフィギュア化
没後25年となる2016年、バンダイからS.H.Figuartsでの商品化が決定した。
モデルになっているのは生前最後のライブとなったマジック・ツアーのイギリス・ウェンブリー・スタジアム公演のもの(当時39歳)。ちなみに残念ながらこのツアーは国内では行われなかった。
映画化
2018年11月9日に、彼に焦点を当てた映画「ボヘミアン・ラプソディ」が公開される予定である。
関連タグ
デヴィッド・ボウイ…フレディと同い年のロックシンガー。「Under Pressure」でデュエットした。フレディ没から25年後の2016年、病気を抱えながらも音楽活動を続け新譜を残した同年に亡くなるというというフレディに似た華々しくロックな最期を飾った。