黄皓
こうこう
中国三国時代における蜀の宦官。
蜀を滅亡に導いた奸臣として有名な人物。
概要
生年は不明であるが蜀末期の臣である郤正とは屋敷が30年近くも隣同士であった事から諸葛亮が存命であった頃から仕えていたと思われる。蜀の第2代皇帝劉禅に寵愛されたが、劉禅に対して厳しい諫言役であった董允の存命時は低い役職に留まり表立った行動はできなかった。
246年に董允が亡くなった後に朝廷内での発言力を強めるようになり、250年代の実力者であった陳祗も黄皓ら宦官にはおもねる態度をとり、258年に陳祗が死去した後は完全に朝廷の主導権を掌握した。
黄皓に反発する人間は多かったが劉禅の弟劉永を始め、「三国志」の編者である陳寿やその同門である羅憲など黄皓の讒言により遠さげられ、黄皓の専横を劉禅に訴えた姜維も黄皓によって失脚させられそうになった為成都に戻る事が出来なくなった。結果的に諸葛瞻や董厥といった黄皓の専横を止めるどころか同調する選択を取った人間ばかりが朝廷に残った。
そして263年の魏の侵攻の際には姜維の援軍要請を握りつぶし、劉禅に神託で敵は来ないと伝え蜀の滅亡を決定的にしてしまった。滅亡後は魏将・鄧艾により処刑されそうになったが鄧艾の部下に賄賂を渡し処刑を免れた。以後の消息は不明。
「三国志演義」においても蜀滅亡の引き金を引いた奸臣・佞臣の類として数多くの悪事を重ねるが最後は司馬昭の命令で処刑された。