概要(2019年4月10日まで)
意味合いとしては学習と大きな差は無い。
社会に出て働くようになると勉強した内容もさることながら、それ以上に「勉強する力」があるかどうかが大きな意味を持つようになる。
(ちゃんとした勉強の仕方がわかっていれば、内容も考える力も身についているということから)
試験前や入試前のその場しのぎの一夜漬けの勉強は何の意味もないから、ちゃんと実力が身につく勉強をしよう!
仮に自分が「絵を描くのがが好きだから、イラストレーター(または漫画家)になりたい!だから、学校の勉強はしなくてもいい!!」なんて思っていたとしたら、大間違いである!!
まず、絵しか描けないのにデビューしてもつぶしがきかず、手持ちのネタ(大抵の場合は先行の作家の模倣)を出してしまえばそれで終わり。現実世界や先人の作品からネタを仕入れたうえで自分なりに消化する方法論(すなわち調査や勉強の技術)が必要になってくる。
「自分がしたい仕事に就く」には周りの友人や、同級生以上に勉強する必要があるということを心に留めておいてほしい。
とりあえず、絵や漫画、ゲーム、アニメ以外で自分が一番好きなことや興味があることを徹底的に勉強してみよう!(ただし、学校の科目でなくてもOK)意外なところから自分が一番したい仕事に就く道が見つかるはず。
あらゆる創作のうえで必ず役に立つ知識は歴史(まんべんなく知識を持っている必要はなく、興味のある国・時代を掘り下げると良い。ただし日本人なら日本近代史の知識は持っていたい)と国語(日本語)。それ以外でも森羅万象ほとんどあらゆるものが、何でもネタになるものである。
・・・・・というのが、2019年4月10日までの当記事での内容である。
問題点
上に書かれた文章のように、勉強は何かと必要なものだと紹介されがちである。しかし勉強そのものは善であっても、それを取り巻く要素が真っ黒なことは意外と知られていない。
以下の他にも「他人に威張り散らす大義名分」や「学校の勉強内容の無駄が多い(本当に必要なことを教えない)」といった問題もある。
推奨する側の地頭の悪さ
勉強を押し付ける人間はことごとく、義務やら将来性やらを強調するのがお決まりである。
しかし、人の意見を取り入れる姿勢や習慣が人並にあるなら、勉強は自分から望んでするものであって、他人が押し付けても仕方ないという教訓なぞ、とうの昔に知っているはずである。
それでもなお押し付ける態度を変えないのは、その程度の知識しかなく、そのうえ視野を広げようという向上心も皆無だからであろう。
なぜなら人の意見を取り入れるのも立派な勉強だからであり、どうすれば相手が勉強するようになるのかの法則や成功例を調べるのもまた、紛れも無く勉強だから。
教師や講師
教師や講師については「単に職業柄できないだけ」。生徒の数が減れば、自分らの喰い節が無くなるのは誰にでも分かること。
とはいえ、教える側が勉強に少しでも否定的になるのは本末転倒。加えて彼らもまた人間である。完全な人間はいない。いろいろ背負っているのだから仕方ない。
…と思うかも知れないがその考えは甘い。世界には聞いてて楽しい授業、しっかり生徒に教養が根付く教育システムが確実に存在する。成績向上を掲げる、すなわち人と比べて自分を磨くことを勧めるのなら、教師や講師もまた世界の授業に並び立つのが筋というもの。
彼らが「人間だから~不完全だから~」と擁護されるなら、生徒や学童も同じように不勉強や不登校を大目に見られなければダブルスタンダードになる。
勉強する環境
先述したものと多少被るが、今も日本の学生を脅かす「いじめ」、教師の質の低下、そして発達障碍への理解が世界的に遅れていることから、もはや説明不要である。
そんなことは無いとやたら前向きな人もいるだろうが、「尾木ママ」こと尾木直樹氏が教育現場の腐敗に憤って教育評論家になった経緯を知らないのだろう。
お花畑もいいところである。
なお、こういった社会背景を無視するのも、勉強を押し付ける人間の特徴である。
卒業したあと
勉強という概念の歪みは、卒業生への世間の態度や、卒業生自身の心境にも及んでいる。
採用担当へのインタビューを何件か読めば、学校の成績よりも、学校の内外を問わず好きなことに打ち込んだかどうかとその成果が問われているのは明らか。
しかし、上に挙げたような問題を多く抱える教育現場にほぼ毎日通わされれば、自分を見失い、無個性な人間に仕上がるのは、これまで何度も指摘されてきたことである。
話が変わるが、例えばある者が「微分積分があんなところで使われるとは思わなかった」などと口走った(書き殴った)としよう。
あくまでそれは意外性への感想であって、学校の勉強で微分積分をする必要性の根拠にはならない。その職場で必要なことは、その職場で教えればいいのであり、本来それは教育係や上司の義務なのだ。
もし異を唱えたいのなら、まずは「学校は就職予備校ではない」という論調を叩き潰すことから始めよう。その論調と、「特定の職業でしか使わなくても学校で教えろ!」という主張は対立するからである。
それにしても、どれほど酷い状況でもまともな人間が輩出されているので、「それでも有能な人間は内定もらってるだろ!」という言い分が通ってしまい、理解が遅れてしまうからタチが悪い。
この記事(2019年4月9日まで)
初版はpixivユーザーの「dai-nakagawa」によって書かれたもの(リンク先はpixiv)。右の編集履歴から各バージョンを覗けば、この記事の主旨が、初版から全く変わっていないのが一目瞭然だろう。
要するに彼は、勉強を勧める立場らしからぬ「立て逃げ」をやらかしているのである。
(ちゃんとした勉強の仕方がわかっていれば、内容も考える力も身についているということから) |
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例えば、このような伝わりそうで伝わってこない微妙な文章を、それも本文に組み込むのを止めて、括弧内に押し込めて、それっきりである。
しかも、記事全体がそれなりの長さにも関わらず、「*(アスタリスク)」で大見出しに分けて、一番上を「概要」と題することすら放置しているのだから、勉強の大切さを説く前に、お前がWiki系サイトの基本書式ぐらい勉強しろよと言う他ない。
また、上のリンクからユーザーページに飛んで、それの最終更新や各リンクから絵師としての活動ぶりを見てみれば、持続させる甲斐性の無い人間であることが浮き彫りとなる。
絵師として三流なのを不勉強のせいにしている、というのは邪推だが、そのような厳しい指摘は避けられないだろう。
まとめと教訓
勉強は確かに「できればやった方がいいもの」である。しかし、そういった部分を誇張して流布することで心の隙間を埋めようとしたり、うっぷん晴らしをしようとする無礼者が跳梁跋扈しているのも事実である。
読者諸氏は、自分の無能さ、不甲斐なさ、他にも絵師としてのレベルの低さを「自分が勉強をサボったせいだ」などと決めつけず、中立な目線で厳しく、あらゆる意見を取りこんで、ちゃんと自己評価しよう。
そして自分の中の「やりたい!知りたい!」に真正面からぶつかろう。人から与えられた義務や将来性ではなく、本物の興味・関心・意欲が湧いてくるはず。それこそが勉強の原動力なのだから。
最後に
この記事は削除されてしまうかも知れないが、そのときこそ「勉強のメリットや必要性ばかり強調する人間」の信用が地に落ちる時である。
勉強とは、前の自分より解ける問題を多くすること、すなわち反省して成長することでもある。
この記事を削除してしまえば、2019年4月10日版へと書き換えた本人はもちろん、その内容に共感した人がどこがどうダメだったのかを反省できなくなる。同時に、(削除要請した人から見て)自分勝手な記事を書かないような記者に成長する芽を摘んでしまう。
これはいわば答案用紙が返ってこないのと同じことである。進学受験ならそれなりにあることだが、Wiki系サイトでやることのメリットは一つもないし、言論統制となにも変わりない。
勉強がなんたるかをしっかり肝に銘じているなら、この記事に対しては加筆修正をするはず。
しかし、勉強を押し付ける輩が幅を利かせ、それに果敢に立ち向かう有志の少ない現在の日本では、それは高望みというもの。彼らの信用が地に落ちようとも、社会的地位が揺らぐのは当分先である。
この記事の内容に共感した方は、大人しくコピペしてメモ帳に、あるいは「Snipping Tool」で画面ごと、そしてWeb魚拓等で保存することをオススメする。