高木守道
たかぎもりみち
概要
1960年、県立岐阜商業高校から中日ドラゴンズに入団
正二塁手として活躍し1980年に引退、1986年に監督(代行)に就任するも1年で退任。
1992年に再び監督になるも1995年に成績不振を理由に辞任、2012年、落合博満前監督が好成績にも関わらず更迭され、代行時代含め事実上3度目の監督就任となったが、2013年に4位となり辞任した。
特筆すべきこと
寡黙な性格だが、実は野球理論に関しては確固たる自信を持っており、それを否定されるとどんな相手であろうが徹底的に抗議する。
- 月間ドラゴンズの記者からは「星野さんよりも恐ろしい」と恐れられた。1年先輩でチームで親交の深かった板東英二は高木の姿勢を「球界のガンジー」と例えている。そのことから高木は「瞬間湯沸かし器」と揶揄されることがあり、さらに本人は「暴走老人」と自虐的に言う。
- 一軍デビューは1960年5月7日の大洋ホエールズ戦。当日岐阜で行われたファームの試合が終わり、名鉄電車で名古屋へ移動、名古屋駅前のパチンコ屋で時間を潰していたところ館内放送で「中日スタヂアムに向かってください」と呼ばれ、1軍に合流、そしてプロ入り初打席初ホームランを放った。
- 入団3年目のある日、打球に追いついたものの捕球できなかったプレーに対し杉浦清監督から「何をやってるんだ!」と罵声を浴びせられたのが気に食わず、試合途中で合宿所に帰ってしまったことがあった。しかも中日ナインまで高木がいなくなったことに気付かなかった。
1958年5月28日のジャイアンツ戦で堀内恒夫から顔面にデッドボールを受け、一時意識不明となる。その影響でバッティングフォームを崩してしまったことを根に持ち、3年後の1971年9月2日に堀内から頭にデッドボールを受け激昂、堀内に向かってヘルメットを投げつけ右肩を負傷させてしまった。
1974年10月12日に中日が優勝を果たした。翌日の13日には後楽園球場で長嶋茂雄引退試合となる対読売ジャイアンツ戦ダブルヘッダーが予定されていたが、雨により14日に順延、中日の優勝パレードと重なってしまった。大島康徳、藤波行雄などの若手など準レギュラー選手を出場させ、レギュラー選手には優勝セレモニーに参加するために欠場するよう通達した。だが、県立岐阜商業高校時代に長嶋からコーチを受けていた高木はこの通達に「長嶋さんに対する侮辱だ」と激怒、球団に通達の撤回を求め「それが出来ないのなら自分だけでも出場させてほしい」と抗議した。しかし球団はこれを受け入れず、優勝セレモニーで高木は終始むっとした表情でうつむいていた。高木は後に長嶋に電話で謝罪した(「月間ドラゴンズ」では星野仙一も長嶋に電話で謝罪したと記述)。
1980年シーズンを最後に現役を引退した。セ・リーグオールスター東西対抗で同年引退の王貞治とともに引退セレモニーが行われた。高木は「王さんが引退したら、私がプロ野球で最年長になる。最年長の選手は相応のプレーを見せなければならないが、私はそのプレッシャーに耐えられなかった」と話している。引退セレモニーに際し、名古屋鉄道が当時の看板車両だったパノラマカーを使って、特別列車「サヨナラもりみち号」を走らせた。中日球団はおろか二塁手としてはNPB至上に残るレジェンドではある。