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津山事件の編集履歴2019/07/21 13:04:20 版
編集者:PencilMan
編集内容:内容追記。

概要

1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で都井睦雄によって引き起こされ無差別殺人事件で、刃物以外にも銃を使用して村民30名を約2時間で惨殺し、最後は都井の自殺で終わった。

事件の経緯

都井は集落の比較的ゆとりのある家に生まれたが、持病肋膜炎農作業ができなくなった時期があったことや姉の結婚などを機に次第に引きこもりがちになっていった。

この村には夜這いの風習があったが、都井は徴兵検査でも病気が原因で丙種合格(事実上の不合格)になってから、それまで関係のあった近辺の女性たちにも塩対応をされるようになり鬱屈を募らせていた。

1938年(昭和13年)5月20日早朝、彼は集落の電源を切って停電させた上、かねてから準備していた大量殺人を実行に移す。

最初に自宅で自分の祖母を殺害し、はちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえつけた異様な風体で近隣の住宅に押し入り、子供から年寄りまで住民を次々無差別に殺害していった(しかし、一部の住民は「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言われて見逃されている)。

なお、都井が本来ターゲットにしていたのはかつて自分と関係を持っていたが結局別の男性と結婚した女性であったと言われているが、その女性は実家に都井が乗り込んできたときに逃げ出したことで難を逃れることになり無事であった。

都井は1時間半ほどの凶行ののちに遺書を書いて山に登り、自殺したとされる。

上記のように、本来の標的を殺害できなかったことには悔いが残ったのか、遺書には「うつべきをうたず うたいでもよいものをうった」という無念が綴られていたという。また、自分の祖母を殺害したことについては「後に残る不びんを考えて」とされていた。

事件後の影響

実行犯が死亡した上、彼と交際のあった者たちは周囲の目を憚って口をつぐんだので動機などは未だ分からない点が多い。本事件を題材にしたルポルタージュの一部にも創作の含まれた書籍もあり、現在でも不明な点が少なくない。

事件後、貝尾・坂元両集落は働き手となる村民が著しく減少したことで、農作業を行うことが難しくなり、生活がかなり苦しくなったとされる。また、彼と親交がありながら殺されなかった者も、事件後に心無い噂に苦しめられ、村八分に近い扱いを受けたという。

また、30人という被害者数は、明確に殺害された人数が判明している近代以降の日本の刑事事件の中では当時最多の人数であり(凶器殺人としては現在でも日本で最多)、日本の犯罪史上前代未聞の大量殺人とされ、現代においても犯罪やフィクション作品、都市伝説などに影響を及ぼすこととなった。

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編集者:PencilMan
編集内容:内容追記。
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