剛竜馬
ごうりゅうま
1956年生まれで神戸市出身のプロレスラー。本名は八木 宏(やぎ ひろし)
日本人レスラーの中でも類を見ないほど波乱万丈のキャリアを送っており、
それでもプロレスラーを貫いた姿勢は良くも悪くも「プロレスバカ」な男として知られている。
来歴
デビュー~メジャー団体時代
板前の息子として生まれたが、父親が体が弱く仕事を休みがちで、
更に母親も家出して消息不明となった為に妹達に楽をさせてあげたいという動機で中学生時代に上京。
日本プロレスに数ヶ月程度練習生として通っていたが、日本プロレスではデビューには至らず
(日プロ関係者が『中学卒業してから来るように』と言ったからとも、『先輩に無理やり酒を飲まされて体を壊したから』とも言われている)、
結局1971年に14歳で国際プロレスの第1回新人公募で選出され入団。
翌1972年に15歳でプロレスラーとしてのデビュー試合を行った。
1973年からは全日本プロレスとの対抗戦メンバーに選ばれる、鶴見五郎と共に
海外に武者修行へ出され実績を積み、1976年に凱旋帰国するとファン投票により
リングネームを「剛竜馬」と改め、2枚目のマスクと鍛え上げられた肉体で人気者となった。
1970年代後半、所属していた国際プロレスの中継・テレビ放送の視聴率低下や
経営難に伴う在籍選手への給料の未払いなどが発生するようになると、スタッフや
主力選手達の退団が相次ぎ、その流れの中で剛竜馬も国際プロレスを退団。
1978年に新日本プロレスに移籍し、練習生時代に同じ新弟子扱いだった
藤波辰爾に対して挑戦状を叩きつけ、非常に大きな話題となった。
この頃の剛竜馬は「藤波辰爾のライバル」というポジションを確立しており、
一度は藤波辰爾に勝利しWWFジュニアヘビー級王座を奪ったこともある。
この王座はリターンマッチに敗れた為に数日で奪還されてしまったものの、
古巣である国際プロレスが倒産し、最後まで同団体で残っていた
ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の3人からなる『国際軍団』に
挑戦を受けたり、渡米しNWAアメリカス・タッグ王座を奪取、約1ヶ月間防衛するなど、
プロレスラーとしてのキャリアはこの時点までは順調であった。
しかし、帰国後は精彩を欠いた姿が目立ち、同世代選手の長州力、藤波辰爾、谷津嘉章が
人気絶頂を極めているのに対し、プロレスラーとしては大きく遅れを取るような形になってしまう。
一方で、同時期には俳優デビューもしており、『警視庁殺人課』などに刑事役で
レギュラー出演していたが、途中降板しており俳優活動はこの1作だけにとどまっている。
その後新日本プロレスの内部で起こった対立から生まれた第1次UWFが旗揚げすると、
そのメンバーの一人として名を連ねていたが、ラッシャー木村と共に
たった4ヶ月だけで退団している。ラッシャー木村の回顧録によれば
新間寿氏への義理から名前を貸す形で協力しただけだったため
このような短期間での離脱となった。
最終的に全日本プロレスに移籍し、かつての同門レスラーらと『国際血盟軍』を結成したものの、
その当時の全日プロレスでは崩壊したジャパンプロレスからの大量移籍があった為に
日本人レスラーが飽和しきっており、最終的には人員整理の一環として
解雇される結果となった(中心メンバーやジャイアント馬場との間にトラブルがあったためとも言われている)。
団体立ち上げ~現役末期時代
その後は散発的に活動しつつも、建設内装業の下働きをしていたり、
タニマチが経営していたお好み焼き屋の店長という形で働いていたが、
再びプロレス業界に舞い戻り『パイオニア戦志』の立役者となり、同団体のエースとなった。
物珍しさからそこそこに話題となり、旗揚げ戦では後楽園ホールが満員になるほどの
来場者があったが、その内容は選手がリング上で腕立て伏せやスクワットをする、
お客さんをリングに上げてレスラーと腕相撲させるなど、興行としては常軌を逸した内容が多く、
来賓として招かれていたプロレスラーやプロレス関係者には酷評された。
同団体の活動は尻すぼみになっており、剛竜馬自身も悲願であった藤波辰爾との
シングル再戦でもあっさりと敗戦して今ひとつ見せ場の無いまま終わってしまう。
それでもプロレスを諦めきれなかった剛竜馬は再び『オリエンタルプロレス』を立ち上げて
「出前プロレス」「ほっかほっかビデオ」など、出張興行や当日の試合ビデオを
観客が帰るまでに編集し、お土産として買って帰る事が出来るなどのユニークな
企画で話題となったものの、赤字続きだった事や剛竜馬が海外遠征の利益をピンハネしていたという
スキャンダルにより、選手会から永久追放処分を下された。
その後は低調ながらも活動を続けていたが、それでもプロレスに拘り続ける彼の姿を見た
プロレス雑誌の関係者等の支援により1人だけで『剛軍団』を結成、ご当地プロレスなどに参戦。
藤浪への再戦は「二度と名前を出すな」と事実上の絶縁宣言で蹴られてしまうが、
1994年頃になるとプロレス雑誌等の後押しもあり、
掛け声である「ショア!!」「プロレスバカ(略してPB)」等がちょっとしたブームとなった。
剛竜馬自身もこのあだ名を気に入って自称しており、ファンに「見る方のバカの皆さん」と
呼びかけるなどしており、
1995年に行った東京ドームでのオールスター興行に登場した際には6万人が
「ショア!!」と叫ぶなど、その人気は絶頂を迎える。
この勢いに乗って設立した個人プロダクション『冴夢来プロジェクト(冴夢来プロレス)』では
新人選手の育成だけでなく、無料興行どころか来場した観客に弁当を振る舞うという
気前の良い企画で話題をさらったが、金の使い方を巡ってスポンサーと衝突。1年程で消滅した
(余談だが、この新人育成企画で指導したのがミノワマンこと美濃輪育久で、剛竜馬の最後の教え子となった)。
メジャー団体で何度も退団・解雇を繰り返し転々としたことや、藤浪との確執、
新団体の経営失敗や金銭トラブルなどにより、剛竜馬に声をかける団体はほとんどなくなってしまい、
国際時代からの同輩である鶴見五郎が率いていた『国際プロレスプロモーション』等で
細々と活動するものの、金銭問題や体調不良などにより数戦で契約解除。
鶴見の計らいで組まれた引退試合もギャラに納得できないとし、ドタキャンして
本人不在のままセレモニーが行われるという前代未聞の状態でフェードアウトした。
フェードアウト期~インディーズ団体時代
その後、2003年にひったくり容疑で取り押さえられ(本人は否定している)、
東京スポーツ紙などがこのニュースと絡めてゲイビデオ数本に出演していたことを
暴露するなどしたため、「あのプロレスラー剛竜馬が」と悪い意味で話題になってしまったものの、
本人は「自分の体で稼ぐことの何が悪いのか」とあっさりと認めている。
上記のひったくり容疑により拘置されたが、結局不起訴処分に。
釈放された翌2004年にはまたプロレスに関わる為にNPO法人『WAP』にエースとして参加し、
若手外国人レスラー等と対戦する、『アジアンプロレスリング』でパロディレスラーらと共に出場するなどしていた。
2006年にはDDTにて、復帰戦を行っているが、過度の飲酒により肝臓を潰しており、
かつてのトレードマークだったパンプアップされた肉体は既にやせ衰えていた。
2009年には若い頃の剛竜馬に顔が似ている為にアナグラムしたリングネームの竜剛馬と
夢のタッグを組み自主興行に登場しているが、肝障害が重度だったのか
立っているのがやっとという様子で、ファンからは剛竜馬の体調を心配する声も聞かれた。
同年10月に自転車を運転中に交通事故に遭い、その際に開放骨折していた右手首の傷口から
入った細菌が原因で敗血症のため死去。53歳没。
最後の最後までプロレスのマットに上がることにこだわり続けた一生であった。
得意技
オーソドックスなプロレスを自称していた通り、基本となる技を好んで使っていた。
- 腕ひしぎ十字固め
- ラリアット(晩年)
- ジャーマンスープレックス
- サイドスープレックス
- リバーススープレックス
- バックドロップ