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概要編集

1948年11月23日生まれ、神奈川県横浜市出身。

本名は田中隆雄。身長181cm、体重135kg。

あだ名は「執念のはぐれ熊」など。


東海大学理学部物理学科に入学、勉学と共にレスリングに励むが、当時大学にレスリング部が無く、独自に練習していた。

1971年6月、サンダー杉山の知り合いのつてで国際プロレスに入門、7月12日、札幌中島スポーツセンターでの大磯武戦にてデビューする。

1973年3月、八木宏(後の剛竜馬)と共に海外武者修行のため、ヨーロッパに渡り、主に西ドイツにて活動しながら、イギリスに渡り『蛇の穴』と呼ばれたビリー・ライレージムにてランカシャーレスリングを学ぶ。

(因みに、ジム出身者にカール・ゴッチビル・ロビンソンウィリアム・リーガルらを輩出した。)

その後メキシコに渡り活動、1975年、帰国して中堅レスラーとして活動。

ちなみに鶴見五郎のリングネームは地元である横浜市鶴見区と渡哲也主演映画『無頼 人斬り五郎』(後に北村一輝主演でリメイク)から取って自身で命名したものである。

1979年10月3日の青森県黒石市大会で会場入りした際に自分のカードが組まれていなかったことから始まったトラブルで選手会から除名、更に胸に髑髏のマークを付けた黒いコスチュームに変えヒールに転向、『独立愚連隊』を結成。鶴見によると経営悪化の為に外国人選手の招へいに悩んだ吉原功社長が考えたアングルだったとのことらしい。

国際プロレス解散の半年前に『独立愚連隊』解散、国際プロレス最後の試合を務めた後に海外転戦を経て、フリーランスとして全日本プロレスに登場。

当初は外国人サイドに付きタイガー・ジェット・シン上田馬之助と共闘し国際時代の同僚である阿修羅・原マイティ井上と抗争していた。1984年の世界最強タッグリーグ戦の最終日にジャイアント馬場と仲間割れしたラッシャー木村をリーダーに菅原伸義(アポロ菅原)、木村と共にUWFから移籍してきた剛と共に『国際血盟軍』を結成、のちに原とも共闘した。しかし全日本における日本人選手が飽和状態となり、1986年に初期メンバーの剛・菅原及び1985年6月に加入した高杉正彦の3人が整理解雇され解散。尚、画像の国際血盟軍の旗は鶴見自身が縫って作り上げたものである。

その後も全日本のリングに上がり続け馬場と木村のファミリー軍団入りを直訴して認められそうになった矢先の1990年に、自ら「将軍KYワカマツ」こと若松市政に連絡を取りSWSへ移籍。若松率いる『道場・檄』所属となる。


1992年のSWS崩壊後、『道場・檄』とジョージ高野が率いる『パライストラ』のメンバーと共にNOWに参加するも崩壊。その後、IWA格闘志塾を旗揚げしてインディー団体の統括組織であるレスリング・ユニオンに加盟、大仁田厚のFMWや「宇宙パワー」として高野拳磁が主宰していたPWCにも上がる。

ユニオン崩壊後は国際プロレスプロモーションと変えて地元横浜市鶴見区、茅ヶ崎市を中心にトレーニングジムの経営と平行して小規模に活動するが2006年7月に引退を表明する。


2013年8月22日、新宿FACEでDDTとプロレスリングFREEDOMS全面協力の下で引退試合を行った。


2022年8月26日7時11分、神奈川県内の施設で低血圧と敗血症のため死去した。73歳没。

訃報は家族よりFREEDOMS佐々木貴を通じて報じられ、遺体は本人の生前の意向により献体に付された。


得意技編集

体型に似合わずレスリング巧者であり馬場からも非常に評価されていた。

全日本時代に開発した。

  • ゴロースープレックス

真横から相手の片方の太股を抱えるようにして股の下でクラッチして持ち上げて後方へ反り投げる。

  • バックブロー(裏拳)

裏拳用グローブを装着、これをトレードマークにしていた。

  • 地獄突き

関連タグ編集

プロレス


高木三四郎…IWA格闘志塾時代の弟子。

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