「世の中には二通りの人間しかいない。殴る人間と殴られる人間だ。だから俺はプロレスを選び殴る人間になった。」
概要
インド・パンジャーブ州出身。1965年カナダ・トロントでデビュー。
初来日は1973年。新日本プロレスのリングに乱入し、試合をしていたレスラー山本小鉄を滅多打ちにするという衝撃的な日本でのデビューを飾った。
以後、新日プロの総帥アントニオ猪木を宿敵と見なし、因縁の抗争劇を繰り広げた(後述)。
後に全日本プロレスや数々のインディー団体、ハッスル、猪木主催のIGFと渡り歩いた。
日本では凶悪ヒールとして暴れまわったのに対し、地元トロントでは一転してベビーフェイスとなる。
と、同時に凶器として使われることも多々あり、特にサーベルは猪木が口にナイフを咥えているシンの写真を見て「どうせならサーベルでも咥えさせろよ」と進言したという。
得意技
- コブラクロー
シンの代名詞ともいえる技。頚動脈を押し当てるチョーク攻撃にあたるため、本来は反則技である。
この技をかけたまま相手の背中をマットへ押し付け、そのまま3カウントを奪う事もある。
- 反則攻撃
シン自身が跪いた状態から、近寄ってきた相手の股間目掛けてローブローを見舞う急所突き。
また、相手の頭への噛み付き攻撃など。
上記のサーベル、ターバンの他、パイプ椅子、机、ゴングなど試合会場の周りにあるあらゆる物を使用。
また、それ以外では相手選手へ粉を撒いたり火炎攻撃などもあるが即反則負けとなるケースが殆ど。
しかし反則攻撃が目立つ一方でブレーンバスター、足4の字固め、レッグシザース、アルゼンチン・バックブリーカー(猪木からギプアップを奪った)など、卓越した正統派レスリングをここぞという場面で見せてファンを魅了している。
我が宿敵アントニオ猪木
1973年11月、シンは数名の外国人レスラーを従えて、当時の夫人だった女優の倍賞美津子と買い物中の猪木を新宿伊勢丹前で襲撃し、流血並び負傷させたとして警察沙汰となる事件を起こした。
この事件が発端となり猪木との抗争劇が始まったのである。
同年11月、札幌を皮切りに、翌1974年6月の東京・大阪でのタイトルマッチ2連戦で最高潮に達した。
中でも東京・大阪での2連戦では初戦の東京・蔵前国技館の試合で猪木がシンに火炎攻撃を見舞われ、左目を負傷。次戦の大阪府立体育会館での一戦では試合前、「奴の腕をへし折ってやる!」と公言。
その公言どおり、猪木はシンの右腕を鉄柱などを利用して集中的に攻め続け、最後はショルダー・アームブリーカーの連発でシンの右腕が骨折した(実際は肩の亜脱臼)という結末で遺恨に一旦終止符が打たれた。
が、その後も、タイトルのベルトを獲ったり・獲られたり等々、両者の因縁はシンが全日本プロレスに引き抜かれた1981年まで延々と続いていくのだった。
ともあれ、無名揃いの外国人レスラーの中でメキメキと頭角を現し、後に魔性の闘魂と呼ばれる猪木の狂気を最大限に引き出したうえ、その抗争を超満員札止めのドル箱カードに仕立て上げるなど、黎明期の新日本プロレスに多大な功績を残したと言っても過言ではないだろう。
1990年9月、猪木のデビュー30周年記念興行において、猪木と一夜限りとなる夢のタッグを結成、ファンを驚かせた。
近年は猪木主催による興行に姿を現しマイクパフォーマンスをする猪木を「俺と戦え!」と挑発した挙げ句襲撃するなど浅からぬ因縁は現在も続いているようである。
二面性
徹底したヒール哲学
「会場にいる者全てが俺の敵だ、だから俺は観客でもカメラマンでも殴る」
試合中はもとより、控え室や移動中等でもファンや関係者をしばしば襲っていたことで、その様子がメディアを通じて知られるようになり、唯一無二の恐怖を与えるヒール像を確立させている。
親日時代はリングアナウンサーに暴行を加え、シンに殴りかかろうとした観客を完膚無きまで叩きのめして病院送りにしたことがあった。
ハッスルでは女性客にサーベルを突き刺したり、泣き叫ぶ子供や逃げ惑うカップルを追い回したり、さらにスポンサーのお偉いさん方も襲われるなど、その狂乱振りは益々エスカレートしていった。
※「わたしも、シンとブッチャーだけは商売としての悪役ではなく、骨のズイから狂暴性があるとの談に同感だ!並みのレスラーなら、レスラー仲間やプロモーターにきらわれ、試合できなくなるまでの反則はしないが、シンは平気でやる!悪役として、自己宣伝のためマスコミの取材やファンのサインには応じるが、シンは無視するかおっぱらう!(以下略)」アントニオ猪木(談)
しかし、ブッチャーはリングを離れると気さくに取材やサインに応じていたこともあり、それまでは徹底して他人を寄せ付けなかったシンも後年、サイン会等、ファンとの交流を行い、バラエティ番組にゲスト出演するなど、プロレス以外での活躍が目立つようになった。
※プロレススーパースター列伝から抜粋
実は紳士!?
リングでは凶悪ヒール、しかしプライベートでは相当の子煩悩で子育て上手な一面を持つシン。
また、彼は実業家としての顔を持ち、態度もリング上で見られた狂人振りとは打って変わって聡明な紳士であることが関係者の間で知られており、財界、政界とも繋がりがある。
先述の「徹底したヒール哲学」も彼の真面目な性格とプロ意識の高さから猪木から求められていたものを即理解して「インドの狂虎、タイガー・ジェット・シン」は誕生した。田中秀和リングアナの証言では確かに新日のリングアナとして入った当初は、唯一出くわすだけでも恐ろしかったプロレスラーだったという。そして時が経ちある時から舞台裏では気の合う仲になっており、時にプロ意識に関して色々と語ってくれたり「リングアナ襲撃」に関しても「デカい会場もしくはテレビ中継の場でしか俺はお前を襲撃しない。そうする事で俺もお前もオイシイ(大きい会場だと沸かせるし、中継だとカメラのアップで互いにインパクトある画になって目立てる)事になるだろう?」とまさにシンのプロ意識が高かった事を明かした。また、田中氏によればシンは控え室で徐々にタイガー・ジェット・シンに変わっていく過程が目に見える程で、試合後も素顔のシンに戻る時も時間をかけたクールダウンが必要だったという。
故郷のインドで募金活動、茨城県つくば市にカレーハウスを経営、カナダに自分の名前を冠した公立高校が開校するなど、多岐にわたる事業を展開している。
関連動画
入場テーマ曲「サーベルタイガー」
シンの代名詞とも言えるテーマ曲。この曲が流れると同時に、シンは暴れながら入場し、椅子を投げたりサーベルで殴り掛かったりする為、花道周辺の客は戦々恐々としていた。
後年、FMWやハッスルに参戦した時もこの曲を使用。全盛期を過ぎていたシンは、肝心の試合は反則や乱闘オンリーですぐ終わるパターンが多かったものの、その代わりに入場シーンでより派手に暴れ回るようになる。会場にいる客にとってはシャレにならず、リングサイドの椅子席が壊滅状態になったり、逃げ遅れた女性客が泣き出すなどの事態が頻繁に起きていたが、それでもほとんどの観客は大喜びで、立派なファンサービスの一つだったとも言える。
ちなみに、一時期全日本プロレスに参戦していた頃は、ブッチャーと同じ「吹けよ風呼べよ嵐」を使用していたが、シンのイメージに合わないと、あまり評判は芳しくなかったと言う。