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ヨーゼフ・ゲッベルスの編集履歴

2020-08-03 19:39:54 バージョン

ヨーゼフ・ゲッベルス

よーぜふげっぺるす

ヨーゼフ・ゲッベルスとは、「プロパガンダの天才」と称されたナチス・ドイツの国民啓蒙・宣伝大臣。

プロフィール

フルネームパウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels)
生年月日1897年10月29日
没年月日1945年5月1日

ゲッペルス?

読みにくさ故か、日本語ではしばしばゲッ「」ルスと半濁音が書き間違えられる事がある。


概要

4歳の頃に患った小児麻痺のせいで足がやや不自由だったが、弁舌に優れていた為にドイツの政治活動で身を立てて「プロパガンダの天才」などと異名を持つ優秀な政治家。

ヒトラー政権下では国民啓蒙・宣伝大臣としてドイツ国民に親ナチス精神のプロパガンダを植え付けにた功労者で、同時にヒトラーの忠臣中の忠臣ともいうべき人物。

ナチス入党当初は反ヒトラーだったが、彼のカリスマ性にあてられてなのか後に熱狂的な信者となった。


1945年にドイツが敗北寸前になってゲーリングヒムラーといった最高幹部がヒトラーをみかぎって去る中で、ゲッベルスは最後までヒトラーに従おうとヒトラーらが潜むベルリンの地下壕に潜んでいた。

子供たちも地下壕に避難して来たが、4月30日にヒトラーとエヴァは自殺。ヒトラーが遺言で彼を首相にするようにと命じられる。ゲッベルスは首相権限において条件付き降伏を連合国に提案したが一蹴されて絶望。無条件降伏したドイツでは自身は辱しめられた上で殺され、妻子は終生迫害を受けると考えたゲッベルスは5月1日、妻のマグダに子供たちへ毒を飲ませて死亡させ、2人もすぐに彼らを追うように銃で、この世を去った。


宣伝思想・方法

彼の宣伝概念は、ヒトラーの著書『我が闘争』を踏襲しており、あくまで宣伝を成功させることにこだわっていた。実際、「大衆を獲得するために役立つならどんな手段を使ってもいい」と自ら語っている。


特に有名な方法は、「大衆の怒りや闘争心といった攻撃的な感情を煽る」と言うやり方で、かの『総力戦布告演説』もこの方法が使用されている。


しかし、彼の宣伝方法は「現実から乖離した宣伝は国民と兵士の軽蔑を買う」としてあくまでも現実に則したものであることを前提としていた。総力戦演説も、スターリングラードの戦いで破れ苦境にあることを認め、国民に危機感を持たせ更なる奮起を促したものである。


夫婦生活とプレイボーイ

女性関係でいろいろ問題を持ったといわれ、一度離婚している。だが2番目の妻・マグダの下で6人の子供(彼女の連れ1人も養子に迎えられている)を持つようになり、ナチスの思想をもとに大切に、仲良く育ててきた様子は、まるで模範のようなドイツ人の家庭だとしてそれを国家全体に宣伝した。


ただし、彼の奔放な女性関係は再婚後も治らず、レニ・リーフェンシュタールと対立したり、女優のリダ・バーロヴァと関係を持った際には、「宣伝大臣を辞任して同盟国である駐日本大使となり、バーロヴァと共にドイツを去りたい」とヒトラーに申し出たほど。当然、これは許されるわけもなく、ヒトラーはゲッベルスにバーロヴァとの手切れを、妻には結婚生活の継続を命じるという前代未聞のスキャンダルへと発展した。


マグダの方もなかなか激しい男性遍歴の持ち主で、かつてはシオニストと交際し、パレスチナへの移住を夢見ていたり、富豪と結婚して多額の慰謝料をせしめ、ゲッベルスと同時に二股をかけていた恋人は銃殺されかけている。

思想のベクトルにはあまり頓着がなく、ファナティックでマッチョなものにひかれやすかったようだ。


ちなみに先述のマグダの連れ子のハラルトは空軍の軍人になり、早い段階でイギリスの捕虜となったため一族の中で唯一生き残っている。



関連イラスト

0501DER KLEINE DOKTOR

宣伝相夫妻



関連タグ

ゲッベルス 第三帝国 ナチス ヒトラー

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