ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

アラン・プロストの編集履歴

2020-08-16 09:46:13 バージョン

アラン・プロスト

あらんぷろすと

アラン・プロストとはフランス出身の元F1ドライバーである。

概要

1980年代~90年代前半に活躍したフランス出身のF1ドライバーで唯一のフランス人F1ワールドチャンピオン。1985年、86年、89年、93年の4度に渡り、F1のワールドチャンピオンに輝いた。


マシン・タイヤを労り、クレバーな計算されたドライビングから『プロフェッサー』の異名を取った。

マクラーレンでチームメイトであったアイルトン・セナと激しい戦いで付いたセナ・プロ対決が象徴的。


プロフィール

出身フランス
性別男性
生年月日1955年2月24日
F1初参戦1980年アルゼンチンGP
F1最終参戦1993年オーストラリアGP
在籍チームマクラーレンルノーフェラーリウィリアムズ
優勝回数51勝
趣味ゴルフ・ロードバイク

経歴

フランス中部ロワール県で大工の子として生まれ、14歳の時にゴーカートと出会った事がモータースポーツとの出会いだった。その後は順当にステップアップをして、ヨーロッパF3、フランスF3でチャンピオンになる。


1980年開幕戦アルゼンチンGPにマクラーレンよりF1デビューし、いきなり6位入賞をする。プロスト本人は元々、地元フランスのリジェチーム加入に憧れていたが、多額のシート料を請求された為に諦めていた。そこに、F3時代のプロストの圧倒的な強さを知っていたマルボロがマクラーレンテストへと結び付けたのが、マクラーレン入りのきっかけだった。この年は4度入賞を果たすも、マシンのポテンシャル不足やマクラーレンの組織改革に振り回されるのを嫌い、チームを離脱。


1981年~1983年の3年間はルノーチームに在籍。移籍初年度の81年は、地元フランスGPでの自身初優勝を含む3勝を上げた。82年は2勝するも、チームメイトのルネ・アルヌーとの確執、友人だったジル・ヴィルヌーブの事故死、西ドイツGPでのディディエ・ピローニを再起不能に追い込む事故など、プロストのドライバーとしての人生を大きく変える出来事の続いた1年だった。

翌83年は4勝をするもチャンピオンにはなれず、チームから責任転嫁をさせられた上にフランス国内からバッシングを受け、傷心のプロストはルノーを離れると共に、スイスへ家族と移住。


84年からはマクラーレンへ復帰。この年からチームメイトだったニキ・ラウダと激しいタイトル争いをし7勝するも、ラウダに0.5ポイントの差でチャンピオン争いに敗れた。これはプロストは勝つかリタイヤなレースに対して、ラウダが優勝を逃しても確実にポイントを獲得するという点で響いた為だった。


関連タグ

F1 アイルトン・セナ フェラーリ ウィリアムズ ルノー リジェ

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました