概要
1980年代~90年代前半に活躍したフランス出身のF1ドライバーで唯一のフランス人F1ワールドチャンピオン。1985年、86年、89年、93年の4度に渡り、F1のワールドチャンピオンに輝いた。
マシン・タイヤを労り、クレバーな計算されたドライビングから『プロフェッサー』の異名を取った。
マクラーレンでチームメイトであったアイルトン・セナと激しい戦いで付いたセナ・プロ対決が象徴的。
プロフィール
出身 | フランス |
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性別 | 男性 |
生年月日 | 1955年2月24日 |
F1初参戦 | 1980年アルゼンチンGP |
F1最終参戦 | 1993年オーストラリアGP |
在籍チーム | マクラーレン・ルノー・フェラーリ・ウィリアムズ |
優勝回数 | 51勝 |
趣味 | ゴルフ・ロードバイク |
経歴
フランス中部ロワール県で大工の子として生まれ、14歳の時にゴーカートと出会った事がモータースポーツとの出会いだった。その後は順当にステップアップをして、ヨーロッパF3、フランスF3でチャンピオンになる。
1980年開幕戦アルゼンチンGPにマクラーレンよりF1デビューし、いきなり6位入賞をする。プロスト本人は元々、地元フランスのリジェチーム加入に憧れていたが、多額のシート料を請求された為に諦めていた。そこに、F3時代のプロストの圧倒的な強さを知っていたマルボロがマクラーレンテストへと結び付けたのが、マクラーレン入りのきっかけだった。この年は4度入賞を果たすも、マシンのポテンシャル不足やマクラーレンの組織改革に振り回されるのを嫌い、チームを離脱。
1981年~1983年の3年間はルノーチームに在籍。移籍初年度の81年は、地元フランスGPでの自身初優勝を含む3勝を上げた。82年は2勝するも、チームメイトのルネ・アルヌーとの確執、友人だったジル・ヴィルヌーブの事故死、西ドイツGPでのディディエ・ピローニを再起不能に追い込む事故など、プロストのドライバーとしての人生を大きく変える出来事の続いた1年だった。
翌83年は4勝をするもチャンピオンにはなれず、チームから責任転嫁をさせられた上にフランス国内からバッシングを受け、傷心のプロストはルノーを離れると共に、スイスへ家族と移住。
84年からはマクラーレンへ復帰。この年からチームメイトだったニキ・ラウダと激しいタイトル争いをし7勝するも、ラウダに0.5ポイントの差でチャンピオン争いに敗れた。これはプロストは勝つかリタイヤなレースに対して、ラウダが優勝を逃しても確実にポイントを獲得するという点で響いた為だった。