生涯
大友義鑑や義鎮(宗麟)に仕えた重臣・吉弘鑑理の次男として生まれる。幼名は千寿丸。仮名は弥七郎。諱は鎮理、鎮種。紹運は出家後の名。三河守、三河入道と称した。
元服時に主君・大友義鎮と父・鑑理から1字ずつ賜り”吉弘鎮理”と名乗る。子は統虎(立花宗茂)や統増(立花直次)。
大友氏の家臣・高橋鑑種が謀反を起こし、豊前国などの国人がこれに連携して反乱を起こしたとき、父や兄・吉弘鎮信(宗仞)と共に出陣して武功を挙げた。
反乱鎮圧後の1569年、宗麟の命令で高橋氏の名跡を継ぐこととなり、高橋氏の通字の種を取り”高橋鎮種”と名乗った。同時に所領として岩屋城と宝満城の2城を与えられる。
以降は北九州の軍権を任されていた戸次鑑連(道雪)の補佐役を務めながら筑前国支配に貢献し、
そして、大友氏の主たる戦で奮戦して、名実ともに大友氏の勇将として地位を築いていった。
天正6年(1578年)、耳川の戦いにて大友氏と島津氏が激突し、兄・鎮信を初め戦死者を多く出して敗戦してしまった。この戦いを期に大友氏が大きく衰退しはじめた。
そして1586年、島津義久の従弟・島津忠長を総大将とした島津・秋月連合軍の5万の兵が筑前に押し寄せ、紹運は籠もる岩屋城にて迎えうった(岩屋城の戦い)。
この時、味方はわずかに763名ほどであったとされ、当初の島津氏側は早期決着されるだろうと思われていたが、紹運は降伏勧告をはねのけて徹底抗戦した。
これにより当初の目論見とは反して、半月に及ぶ長期戦となり、島津氏側は3000人の戦死者を出すなどした。
しかし、圧倒的数には勝てず、全員玉砕し紹運も切腹し果てるという壮絶なる最期となった。
ちなみに紹運の吉弘系高橋氏は長男の宗茂が立花家を継いだために次男の直次が継ぐが、晩年に立花へ改姓したために絶えた。しかし、その直次の家系がのち立花氏本流となり現在まで続いており、紹運の血は直次を経て女系子孫として元首相の細川護熙や麻生太郎らに伝わっている。
逸話
- 道雪が統虎を養子にと求められたが、紹運自身も息子の統虎の高い器量を察していたので、これを断り続けた。しかし、道雪の再三の申し出を断ることができなくなり、これを承諾すると共に、養子となる統虎に対して「道雪殿を実の父と思って慕うように」と言い聞かせ、一振りの脇差備前長光を与えて「道雪殿とわしが争うことになったならこの太刀でわしを討て」と訓戒したとされている。
- 岩屋城の戦いの最中、島津方の武将が「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分証明されました。降伏されたし」と問いかけた時に紹運は、「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である」と応え、敵方の島津軍からも感嘆の声があがったと言われている。
- 当時秀吉の侵攻に備えて九州の統一を急いでいた島津軍であったが、この紹運戦の長期化を筆頭に各地で大友軍の思わぬ抵抗によって苦戦を強いられ、戦力と時間を浪費、準備を整えられないまま毛利輝元や黒田官兵衛ら島津討伐の先遣軍の上陸を許す。豊後方面における島津家久らの奮戦も空しく、20万もの本隊の到着を前に根白坂の戦いで大敗し無条件降伏の憂き目に遭った。結果、大友氏は滅亡寸前まで追い詰められながらも、その命脈を保つことに成功した。
戦国無双
武器:槍(4まで) 大太刀(4Emp) CV:江川央生(2)、宮坂俊蔵(3)、藤本たかひろ(4)
「人は姿ではなく心。うぬが心根、武を交え、見ん!」(3Emp特殊セリフ)
「義に生き、義に死す。我が生き様…見よや!」(4Emp特殊セリフ)
概要
大友家家臣。立花宗茂の実父であり、立花誾千代の義父。「雷神」と呼ばれた立花道雪に対し、「風神」と呼ばれた猛将。「2」作中では岩屋城で玉砕し、豊臣軍の到着までの時を命を捨てて稼ぐことに成功した事が語られた。
その後、2Empにて初登場。見た目は九州兵モブグラフィックだが、声は勇将という特殊なモブとして登場していた。2猛将伝でもプレイヤーキャラに昇格した柴田勝家に代わって護衛武将として登場している。
3Empでも登場しており、対峙すると上記の台詞を呟く。島津の章にて岩屋城の戦いの総大将として登場。特殊セリフは上記の台詞以外にも息子の宗茂や島津義弘とのセリフがある。
「4」にて鳥を模した銀色の兜を被った特殊モブとして登場。九州の章で登場。耳川の戦いで主君の大友宗麟の命を受け、九州南部攻略を目指して島津と戦ったが敗れる。その後は島津と史実通りに岩屋城にて戦って果てるが、豊臣軍を到着させる事に成功した。
4Empでは武器と特殊台詞が変更された。